トップページ(南木-楠木正成サイト-) >>  楠木正季(くすのきまさすえ)【楠正季】

楠木正季(1305?〜1336)

逆さ菊水紋生い立ち
 鎌倉末期から建武の親政期の人物。楠木正成の弟。七郎。七郎左衛門。帯刀。摂津守。出生の年は不明(1305?)ですが、1336年の湊川の戦いで死去したときに32歳だったと伝わります。正成と同じように大江時親から兵法や軍学を学んだものと想像されます。南河内(大阪府)の龍泉寺山頂の龍泉寺城にいたことから楠木龍泉とも言われています。
龍泉寺
逆さ菊水紋北条幕府軍との戦い
 鎌倉幕府の大軍との上赤坂城(楠木本城)での戦いでは、この城の副将として活躍します。平野将監を大将として籠城し幕府の大軍と戦いますが、やがて、幕府軍に城の水の手を断たれた為、籠城兵は水に困りました。それでも12日間も戦い続けましたが、そんな折、大将の平野将監は、「我らが楠木勢に仕方なく味方した罪を赦してくれるのならば降伏します」という条件を出して敵将に交渉しました。幕府方からは、降伏将兵の本領安堵の書状を出したり活躍した者への恩賞を約束したりしましたが、いざ、降伏すると縄をかけられ、京の六条河原で処刑されてしまいました。
 正季は、平野将監が降伏した後も城に残りましたが、隙をみて金剛山へ脱出しました。金剛山頂上の國見城では大将として活躍しました。
逆さ菊水紋七生滅敵
 建武政権下では窪所・武者所に勤務しました。1336年の湊川の戦いで正成と刺し違えて死んだとされています。この時のセリフ「七生まで同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ(七生滅敵)」が『太平記』に出てきます。

良忠院孝道純義
寶國寺の和田二郎正季と嫡子重次の墓