なぎのむら(南木村)


樟本神社  大阪府八尾市「南木の本(みなみきのもと)」・・・ここは管理人の先祖が住んでいたところでした。同じ名字の家が何件かあり、先祖を辿れば同じ所に行きつくのではと親戚一族は言うけれども、今となっては誰もわかりません。いや、私の近い親戚は知りませんでした。2004年1月から調べてみましたら、少しずつわかってきました。

 同じ名字を名乗っている歴史上の人物が何人かいまして、そのもっとも有名なのが「楠木正成」であります。「楠正成」と「くすのき」を漢字一文字でも表記されています。足利幕府の時代、楠木一族は朝敵(朝廷の敵)とされましたが、一族は楠林とか楠瀬、南木というように名前を変えてきました。楠木正成を祀った神社に南木神社(なぎじんじゃ)というのがありますが、この名称も同様に、幕府に憚って「楠」の字を「木」と「南」に分解したとされる説があります(他説有)。

 ここで、ふと「南木の本」という地名を思いました。『「南」の木の本』、では無く『「なぎ」の本』、という意味が込められているのではないか。たしかに、今現在、「北木の本」もあれば「木の本」もそばにあります。ついつい「北」とか「南」とかの字がついていると、基準となる所からみて「北」とか「南」とかいう呼び名が付くと考えがちですが、「南木」と区切って考えてみました。楠の本(元)の村、つまり楠本村もしくは楠村と当時呼ばれていたが、その当時の幕府に憚って、村名を分解し「南木の本」とし、さらに呼び方までも「みなみきのもと」とした・・・、こうは考えられないでしょうか。さらに、この村内と近辺には、式内社の「樟本神社(くすもとじんじゃ)」と呼ばれる神社が「木の本」と「北木の本」と「南木の本」の村に合計三社もあります。「樟」と「楠」、樹木の名称以外に何か繋がりがあるのでしょうか。ちなみに、南木の本の鎮守(私共の氏神)は3つある樟本神社の一つで物部氏の神様を祀っております。一説には物部守屋公だとか・・・。物部氏の稲城と呼ばれた拠点がこの地(八尾市南木の本7丁目)にあった頃は、この周辺は榎村と呼ばれておりました。


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 さらに、「南木の本」のとなりの村落である長吉六反(大阪市平野区)は、昔から『元弘年間に至るまで赤坂村とよばれていた』(東住吉区史総説より、河内判官太夫さんから教えていただきました)そうで、なんでも、楠木正成が挙兵してから混同するのを恐れて正成が村名を改称させたという話があります。正成が幕府軍と戦った城といえば赤坂城です。南河内の赤坂と中河内の赤坂の因果関係はわかりませんが、二つとも、楠木氏の拠点の一つだったのではと考えてしまいます。というのも、すぐ近くの長吉長原(大阪市平野区)の北側に巽城という城があったそうで、これは楠木氏の城の一つだそうです。鎌倉時代末期頃、平地に城や館などの軍事拠点を建てたかどうかはわかりませんが、この巽城がちょっとした丘陵地もしくは交通の要衝に建っていたのではと思ってしまいます。だとすれば、この赤坂という地名の由来は、楠木氏の資金源である葛城山脈の辰砂を水運や陸運を利用して運んびこんだ拠点の一つであったから、この地名になったかもしれません。当時の河内平野の地形は今と違って河川の幅が広く大きくて南から北部または北西部に流れ、陸路の奈良街道にも近いこの長吉村や南木の本村の近くに楠木氏の拠点として巽城を置いたのは当然かもしれません。さらに、楠木氏と争った足利方は、この中河内の赤坂に間違えて攻めて来ているそうです。これを伝える話によりますと正成ではなく、赤坂村の村人が村名を変えたとあります。