トップページ(南木-楠木正成サイト-) >>  楠木正利(くすのきまさとし)【恵秀】

楠木正利【恵秀】(?〜1337?)

逆さ菊水紋紹介
 鎌倉末期から南北朝時代の人物。楠木正成の弟とも甥とも伝わります。
 後醍醐天皇の戦略の一環として越前国(福井県)の平泉寺に送り込まれたと云われています。もともと、河内国(大阪府)の観心寺で学び英才であったこともあり、平泉寺に入ると恵秀と名乗りました。
逆さ菊水紋正成の幻影を見る
 延元元年(1336)5月、正成が湊川で戦死した時刻に、平泉寺でお勤めをしていた恵秀は、馬のいななきと蹄の音を耳にしました。あわてて外に出てみると栗毛の駿馬に乗った正成を見つけ、声をかけると正成は忽然と姿を消しました。胸騒ぎを感じた恵秀は、後日、正成戦死の知らせを受けたのでした。
 数ヵ月後、新田義貞が京から越前国に逃れてきましたが、恵秀は楠木正利として立ち上がり僧兵を率い新田軍とともに戦いました。しかし、翌延元二年(1337)に戦死したと云われています(藤島の戦い)。
逆さ菊水紋恵秀の子孫
 正利こと恵秀の子、正秀は、平泉寺に庇護され、その子孫は、正光-恵光-智光と家系は存続しました。智光の頃、浄土真宗に改宗し、西念寺を創建しました。戦国時代、織田信長の北陸平定にともない、楠木一族である西念寺の住職らは難を逃れる為に、縁続きの紀州(和歌山県)根来寺の黒田党に庇護を願いました。そして、この黒田党の縁者、黒田信濃守定綱が創建した摂津国(大阪府・兵庫県)大仁村王仁山の教願寺の住職になりました。その子孫が大阪府知事であった黒田了一氏です。
 平泉寺には、今も、正利が建てたとされる正成の墓塔が残っているそうです。