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楠木正成(1294?〜1336)

逆さ菊水紋生い立ち
 鎌倉時代末期〜建武の親政期に活躍した人物。
 出生の年、出生の場所、および父の名前は諸説(正遠、正康、正澄、正玄、経成)あって不明ですが、永仁二年(1294)4月25日生まれであるとか、河内国南部の赤坂の水分山の井(現大阪府千早赤阪村)の楠館で出生したとか河内国中部の玉櫛庄(現大阪府東大阪市・八尾市)の出身と推測されています。江戸時代、頼山陽(1781-1832)は正成は43歳で亡くなったと『日本外史』に書いています。母は橘盛仲の娘か。幼名は多聞丸。妻は南河内甘南備の南江備前正忠の妹(娘とも)の久子か。他に橘以隆朝臣の養女(薄弾正少弼の娘)、万里小路宣房の娘(滋子)の説があります。詔贈正三位左近衛中将。崇南木大明神。
 当時、産まれた子供の多くは母親の元で育てられました。正成の母が橘氏なら、通い婚(男性が女性の宅へしのぶ)の時代なので、正成も幼少の頃は中河内に勢力があった母の出身である橘氏の勢力圏で生まれ育ったことが推測されます。後に勉学等を学ぶ頃には南河内の楠木氏の勢力圏へ移ったのかもしれません。
 兄弟には、兄として俊親、弟として正氏(兄の説あり)、正季恵秀(正利)、あと女(姉か妹)もいた模様ですが、いずれも詳細は不明です。正成の姉か妹と推測される人物が伊賀国(三重県)の上嶋家(服部家)に嫁ぎ、能で有名な観阿弥を産んだとされる系図もあります。
 子供は、正行正時正儀、正秀、正平、朝成の6人の男子がいたと観音寺楠妣庵の伝承に残っています。

【楠木氏略系図】
      正康・正澄
       ||
成氏─正俊─正玄┬俊親   ┌多聞
        ├女    ├正綱─正倶─正隆─正理─行康
        ├正成┬正行┴教正(池田氏)
        │  ├正時
        │  ├正儀─┬多聞
        │  ├正秀 ├正勝┬正顯┬正重─正重─正重─正重
        │  ├正平 │  │  ├正理
        ├正氏└朝成 │  │  └正威┬正富┬正澄
        ├正季─賢秀 ├正元├正吉─賢周└正資└正充─正忠─正具─正盛
        ├恵秀─正秀 ├正秀└正秀─正盛┬正吉─圓浄
        └女     │        └盛信・・・・・・正虎┬●─正右─長次─正長
               ├正平─朝成・・・・・・正光      └正辰
               ├正長─正信
               └正信(津田氏よりの猶子)

※系図は管理人の拙考

 正成は天野山金剛寺や檜尾山観心寺を尊崇し、楠木氏の氏神の建水分神社(たけみくまりじんじゃ)とも関係が深く神仏に深く帰依し、修験道や真言密教にも通じていたことと思います。呪詛も用いていたことでしょう。12歳の時から兵法を南河内加賀田の大江時親に学んだと伝わります。
観心寺  楠木一族は河内国を中心に勢力を持った一集団(後期悪党)で、正成はその棟梁だったのでしょう。後の世に忠臣として称えられ、『非理法権天(ひりほうけんてん・ひりほうごんてん)』という言葉や弟正季が言ったとされる「七生まで同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ(七生滅敵・七生滅賊)」という言葉から『七生報国』という言葉もうまれました。

逆さ菊水紋毘沙門天王の化身?
 楠木正成の父とされる正玄が31歳の時(1293年?)、まだ子供を授からないことで悩んだ妻が信貴山朝護孫子寺の毘沙門堂に百日間詣でました。そんなある時、妻が見た夢に金色に輝く鎧を着た人が口の中に飛び込んで来て、その後妊娠し男子が産まれました。その為、その子は神の子、毘沙門天王(多聞天)か、ということになり、正成の幼名を多聞丸と名付けたそうです。多聞丸は幼い頃から優秀で頭もよく相撲にも強かったと伝わります。正成12歳の時(1305年)、父の正玄と共に勢力圏が隣接する八尾(矢尾)別当顕幸との戦いに出陣しましたところ、正成の策で八尾別当を破りました、さらに正成16歳(1309年6月)の時には、八尾別当勢の数百騎を打ち負かしました。正成17歳(1310年6月)の時にも八尾顕幸と戦っています。
 正成は16歳(1309年2月13日)の時に元服したとも伝わります。

逆さ菊水紋北条方??
 楠木氏は鎌倉時代末期、「悪党」と呼ばれていましたが、悪党をうまく使った一党だったのでしょう。正和五年(1316)4月、楠木正成は鎌倉幕府の命により大和国(奈良県)越智邦永を討ち、同月、八尾顕幸を河内国人見山で破りました。さらに元亨二年(1322)4月、幕命で紀伊国(和歌山県)の保田庄の湯浅氏を討伐してその地阿弖河荘をもらっています。同年、京の六波羅に反抗する大和国の越智四郎を討ち、さらに同年、同様に幕府の命令で、摂津国(大阪府・兵庫県)の渡辺右衛門尉を討伐しています。正中二年(1325)、正成は紀伊国の保田の反乱を鎮めています。
 当時の河内守護は北条氏でしたが、「悪党」の楠木氏に討伐命令を出さざるをえない程、幕府の弱体化を感じます。もしくは、この頃の楠木氏は幕府に所属する一党だったのかもしれません。が、上記の1322年の正成への幕命で北条高時は、『河内の国の住人楠正成をして』という表現を用いていることから、幕府の御家人とは違うという意見もあります。いずれにせよ、楠木氏の勢力が河内・和泉から紀伊・大和・摂津方面へも拡がっていったことが読み取れます。おそらく、京の後醍醐天皇や側近たちも楠木氏の台頭を聞いていたことでしょう。この頃に正成は結婚し、嘉暦元年頃に正行が誕生しています。

逆さ菊水紋赤坂城にて挙兵
 元弘元年(1331)楠木正成は、倒幕の中心人物である後醍醐天皇の呼びかけによって南河内の赤坂城(下赤坂城)で挙兵しましたが、これも以前からなんらかの繋がりや計画があったのではと推測されます。それの一つには後醍醐天皇の側に仕え、ブレーンの一人だったとされる文観上人弘真(もんかんしょうにんぐしん)との結びつきではないでしょうか。この真言宗の僧文観は、正成の教育係だったとされる観心寺の僧滝覚坊(和田朝盛の四男?孫?)とは師弟の関係でした。正成は8歳から15歳(12歳か)まで観心寺の中院で滝覚坊からは宋学(朱子学)を学んだとされています。『太平記』にある後醍醐天皇が見られた夢(南木夢)から「楠(木へんに南)」を連想し、正成を呼び寄せたとありますが、『梅松論』には後醍醐天皇の旗揚げに応じた武士の名の中に楠木の名前があったことに後醍醐天皇が安堵されたという話のほうが真相に近いのではとも言われております。後醍醐天皇にとっては京周辺で武力を持っている味方が欲しかったと思われます。おそらく、第二次倒幕計画(元弘の変)がおこる前から正成は絡んでいたことでしょう。

観心寺
逆さ菊水紋一人(いちにん)
 元弘元年(1331)2月〜9月、悪党楠兵衛尉が和泉国(大阪府)若松荘に押し入ったという記録がありますが、これが楠木正成だとされています。同年5月に、後醍醐天皇による倒幕計画が密告により露見しました(元弘の変)。その為、8月には身の危険を感じた後醍醐天皇は京都を逃れ、大和国の笠置で挙兵しましたが、それに呼応して9月に正成も南河内の赤坂城で兵を挙げました。若松荘に押し入った理由は兵糧等の物資の調達の意味があったのでしょう。
 その9月3日、正成は後醍醐天皇に拝謁したそうで、そのときの様子が『太平記』に描かれております。「東夷近日の大逆・・・合戦の習にて候へば、一旦の勝負をば、必ずしも御覧ぜらる可からず。正成一人未だ生きてありと聞召され候はば、聖運遂に開かるべしと思食され候へ」と頼もしく言ったそうです。このときに、左衛門尉の官位と菊花紋を下賜されたといいますが、正成は菊紋は畏れ多いと感じたのか、菊が川に流れている様子に見える菊水紋を用いたとされています。それは、楠木氏が水運業に従事していたり、上の水分社(建水分神社)などの「水」との関係も深いことから、川の流れを家紋に用いたのでしょう。帝をお運びするという気持ちもあったのでしょう。また河内には菊が多く咲いていたとも伝わっていますので、川に流れる菊の花を連想したのかもしれません。
 ひょっとしたら、この時に橘姓を正式に名乗ったのではないでしょうか(元弘元年【1331】2月と書かれた楠木氏の旗印「蟠龍起萬天」には橘正成と署名されていますので、正成は下赤坂城での挙兵前から橘氏を名乗っていたと思われます)? それは、名字ではなく姓を名乗らないと天皇の支配下の者として認められなかったからです。中河内には橘島などの土地があり、橘氏の勢力地があったとされていますが、橘氏の末裔と名乗ることによって、近辺土豪や民衆の掌握に利用できたはずです。
 その数日後の9月11日に正成は下赤坂城で挙兵しましたが、9月28日には後醍醐天皇の篭る笠置山が陥ち、楠木氏などの味方の勢力地へ逃れる途中に後醍醐天皇は捕らえられ、その笠置攻撃軍も10月15日に下赤坂城へやってきました。悪党の楠木軍はゲリラ的戦法などを駆使して大軍の幕府軍を苦しめ、数日間持ちこたえましたが、兵糧の備えも少なく、10月21日、正成は城に火をかけ自害したとみせかけて密かに城を脱出し行方をくらませました。
 この年に正成は後醍醐天皇から愛染明王の像を下賜されましたが、おそらく、これらの挙兵前の出来事でしょう。京に幽閉されていた後醍醐天皇は翌年3月、隠岐国(島根県隠岐)へ島流しにされ、4月に隠岐島の行在所に到着しました。
逆さ菊水紋千早城で再挙
 その約一年後の元弘二年(1332)9月、密かに楠木正成は金剛山に拠り、10月に正成は紀伊国の隅田一族と争い、11月には金剛山の千早城で挙兵しました。今回は大和国の吉野で挙兵した後醍醐天皇の皇子の尊雲法親王で後の護良(もりよし)親王に合わせての挙兵でした。さきの下赤坂城での自害は幕府方からは半信半疑に思われていたことでしょうが、再度の挙兵には、その幕府も少なからず驚いたことでしょう。下赤坂城近辺は楠木一族の拠点ですが、そこを幕府に奪われても一年後に挙兵できる楠木一党の力には底知れぬものを感じます。それは、正成が一年間幕府の追随を逃れながら潜伏し、護良親王と同じ様に挙兵できる財力や動員力、情報網を持っていないと出来ないことでしょう。さらには、ひょっとしたら、楠木一族には幕府御家人のような本拠地という概念があまり無かったのかも知れません。ある一つの土地(先祖の地や本貫地)にしがみつかないといけないという当時の武士らしからぬ考えを持った集団であったのかもしれません。河内に楠木という地名が無いので幕府の有力御家人ではないと評されていますが、正成はあちらこちらに拠点となる館や匿ってくれる神社や寺があったのでしょう。ですので、2度目の挙兵までの潜伏が可能だったと思われます。
 また2度目の挙兵までの約1年間、正成は三河国(愛知県)にも潜伏していたかもしれないと言われていますが、おそらくは、河内・大和・伊賀・紀伊を中心に隠れていたことと思われます。紀伊では護良親王も隠れ逃れた熊野地方に潜伏していたのかもしれません。
 同年12月に正成は、幕府方の湯浅定仏(宗藤か?)が城主としている、さきに楠木正成が挙兵した下赤坂城を奪い返しました。楠木軍は下赤坂城への幕府補給部隊を先に攻撃し、その部隊になりすまして城に侵入し、時をみて城内の湯浅定仏を囲んで降伏させました。湯浅定仏、保田重顕、湯浅時武は、その後楠木の配下となりました。奪還後、下赤坂城を整備しながら、山の上の千早城を強化していきました。同月、河内国叡福寺で尾藤弾正左衛門を破り、再び紀伊の隅田一族と戦います。
 翌年の元弘三年(1333)1月には河内国・和泉国(大阪府)の幕府勢力を一掃(1月5日に天見峠で井上入道・山井五郎と戦い、1月14日に野田氏・河内守護代・丹下入道西念・俣野彦太郎・和泉守護阿保国清・田代了賢を破り、1月15日に陶器左衛門尉・中田氏・橘上氏を駆逐)し、堺浦で六波羅軍を追い払い、摂津国の四天王寺では高橋宗康、隅田通治が軍奉行の六波羅軍を撃破しました(天王寺の戦い)。しかし正成は四天王寺をさっと引き上げたため、勇んでやってきた宇都宮公綱は京へ帰ることになりました。これらの戦いで正成の名がますます高まりました。
 この頃に、正成は摂津国の四天王寺で聖徳太子が書き残したとされる『未来記』を読んだとされています。『未来記』に書かれた文書には、北条氏が倒れ後醍醐天皇の時代がやってくると解釈できる箇所があったそうです。ちなみに、聖徳太子の書物かどうかは疑問視されています。
 『人王九十五代ニ当ッテ、天下ヒトタビ乱レテ、主安カラズ、コノ時、東魚来ッテ四海ヲ呑ム。日西天ニ没スルコト三百七十余箇日、西鳥来ッテ東魚ヲ食フ。』
逆さ菊水紋千早城攻防戦
 そして、1月末になると幕府軍は今回も大軍で南河内へ攻めて来ました。幕府軍は大和国で護良親王の拠る吉野砦と平野将監が城主(副城主は楠木正季)の上赤坂城や詰城千早を陥とす(2月27日、吉野は閏2月1日)も、金剛山山上の千早城までなかなか落とせませんでした。各地から御家人が動員され楠木正成を討ち取った者には身分に関係なく丹後国船井庄を与えるという特別の懸賞まで出されました。河内、紀伊、大和方面からの攻撃や包囲にもかかわらず、少数の兵しかいない楠木軍はよく持ちこたえました。圧倒的な軍勢を擁する幕府軍が一つの小城を攻撃するのです、普通なら楠木軍の兵士達の士気が下がらないわけがありません。しかし、数ヶ月間(5月10日までの約100日間)の籠城を成せた要因としては、兵糧や水などの物資が確保できていたこと、諸砦がうまく連携し機能していたこと、勝利する見込みや外部からの情報を山伏や僧侶などから得ていたほか、長期戦による幕府軍の指揮低下や土民や野伏による幕府軍の後方撹乱、悪党のゲリラ戦法での活躍、そして正成の統率力や配下からの信頼度が高かったことがうかがわれます。
 時が立つにつれ幕府軍弱しのうわさがどんどん全国各地に広まっていきました。同年1月21日には、播磨国(兵庫県)で赤松円心則村が挙兵しておりましたが、さらに各地で反幕府勢力が立ち上がりました(出雲国では塩冶高貞、伊予国では土居通益・得能通綱・忽那重清、肥後国では菊池武時が旗揚げをした)。隠岐島に流されていた後醍醐天皇は、同年閏2月28日に脱出して伯耆国(鳥取県)の名和長年(長高)を頼って船上山で挙兵しました。船上山で倒幕の綸旨(りんじ)をばら撒いていましたが、4月29日、その後醍醐天皇を倒すために向かっていた幕府方の有力武将の足利高氏(のちに尊氏と名乗る)までもが寝返り、千種(ちぐさ)忠顕、赤松円心、足利高氏らが同年5月7日、京都の六波羅探題を攻め、これを落としました。さらに、幕府軍として千早城攻めに参加していた新田義貞は理由(病)を付けて本拠地上野国(群馬県)の新田庄に帰っていましたが、同年5月8日にその地で挙兵、倒幕軍に参加を表明する関東の武士を増やしながら一気に鎌倉幕府へ攻め込み22日には陥落させました。これによって鎌倉幕府は滅亡いたしました。こうして千早城は最後まで持ちこたえました(金剛山ハイマダ不被破)。
 6月2日、正成は京へ向かう後醍醐天皇を播磨国の兵庫で迎謁し、先駆しながら京の東寺へ御供しました。殊勲第一は楠木正成や護良親王に値するとされましたが、楠木正成は、義兵をあげるも鎮西探題北条英時に討たれた菊池武時こそ殊勲第一であると述べたそうです。
逆さ菊水紋建武の親政
 楠木正成は河内守、河内・和泉の守護職に任じられました。記録所の寄人(よりうど)や雑訴決断所と恩賞方の奉行にも任じられました。建武元年(1334)2月には従五位下検非違使(けびいし)にも任命されました。4月9日、出羽国屋代庄の地頭職を賜りました。同年8月25日付の現在湊川神社所蔵の正成直筆の奥書には、「従五位上行左衛門少尉兼河内守橘朝臣正成」とあるそうですので、従五位上に昇進しております。この奥書は「橘朝臣」という姓を用いていることからも、正成が橘氏の末裔とされる根拠の一つです。この頃に、正成が身方塚・寄手塚を建設しました。
 同年9月21日、後醍醐天皇の石清水八幡宮への行幸に正成は名和長年や足利尊氏とともに警護の任務につきました。23日には東寺の門を衛守しました。
 同年10月、北条氏の余党、佐々目憲法僧正(或いは叔父の六十谷定尚)が紀伊国飯盛山で反乱しましたが、正成が京を離れて三善信連と共に討伐へ向かいました。この時、高野山の衆徒も正成を助けました。その京を離れた隙に尊氏をよく思っていなかった護良親王が10月22日に逮捕され、11月15日、足利直義のいる鎌倉へ配流され監禁されました。
逆さ菊水紋尊氏、反旗を翻す
 鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による建武の新政がはじまるも各地の武士達は新政府への不満をしめしていましたが、北条時行の中先代の乱後(乱中、護良親王は殺害されます)、その討伐の為に鎌倉へ勝手に下っていた足利尊氏は建武二年(1335)10月、朝廷に反旗を翻しました。
 同年12月、新田軍を箱根で破り、翌建武三年(1336年)1月、尊氏軍は京に攻め上ります。一旦後醍醐天皇は京を逃れますが朝廷側は足利軍を破り激戦を制します(京都攻防戦)。それは奥州(東北地方)北畠顕家軍団の活躍の他、宇治を守備した楠木正成の策略が用いられた為の勝利とされます。
 翌2月にも摂津国豊島河原(大阪府兵庫県)・打出西宮浜(兵庫県)で両軍激突し、足利軍は九州へ落ちて行きました。豊島河原の戦いの時に義貞と意見が合わなかったのか、正成は途中で自軍を引いています。それ以前からなんらかの確執があったのかも知れません。
 尊氏が九州へ落ちていったときに、正成は「両将、西国を打靡して、季月の中に責上り給うべし」(尊氏・直義は九州を平定して近いうちに京へ攻め上ってくるだろう)「其時は更に御戦術あるべからず。上に千慮有といへども、武略の道にをいては、いやしき正成が申條たがふべからず。只今思召あはすべしとて涙を流しければ・・・」(『梅松論』)と朝廷に述べ「義貞を誅伐せられ、尊氏卿を召かへされて、君臣和睦候へかし」(義貞と手を切って尊氏と和を結ぶべし)と後醍醐天皇に奏門しています。「御使にをいては正成仕らむと申上たりければ」(私正成がその使者になる)とも言っています。しかし、その意見は「不思議の事を申たりとてさまざま嘲弄ども有ける」(『梅松論』)ありさまで、公卿らの反対や非難をあび、採り上げられませんでした。さらに、九州から上ってきた足利軍と戦うためには、京は守備しにくい為、「一旦京を離れて足利軍を京に入れ、四方を包囲(義貞が比叡山側から、正成が淀川を封鎖など)し兵糧攻めを行い、疲れきった相手を一気に殲滅すべし」と献策するも、坊門清忠ら公卿たちに、「(今年に2度も)京を離れるとは何事か!」と反対され、後醍醐天皇もこれに従います。「ただ時をかへず、楠まかり下るべし」と命じられた正成は足利軍を迎撃に西へ向かいました。そんな正成に従う地元河内・和泉国の兵が約700騎しか集まらなかったとされています。時代は後醍醐天皇の親政よりも武家の統治する世の中を望んでいたのかもしれません。正成も従軍するなと密かに命じていたのかもしれません。
 『梅松論』には、正成の心情について「然間正成存命無益也、最前に命を落すべきよし申切たり」と書いています。今回は特に死ぬ覚悟をしたのでしょう。

打出
逆さ菊水紋湊川の戦い
 九州へ落ちていった尊氏は、尊氏方が朝敵にならない為に、その途中光厳(こうごん)天皇の院宣(いんぜん)を得、筑前国(福岡県)多々良浜の戦いで奇跡的に勝利し西国の武士をまとめあげ上洛いたします。「今度の君の戦、かならず破るべし」の思いを抱きながら楠木正成は新田軍と合流すべく兵庫へ出陣しておりました。京から西へ向かう途中の桜井駅にて正成の息子正行に河内へ戻れと言い、嫌がる正行をさとす、いわゆる「櫻井の訣れ」は後に挿入されたエピソードとされています。正行の年齢設定が幼いので、物語としては、その方が読者の感動を呼ぶとかがその理由ですが、実際は正行ではなく下の弟だったのかもしれません。正成の形見として刀を渡したとされています。
 5月25日の決戦の日、足利水軍の上陸予想地点(兵庫近辺)で迎えていた新田・楠木軍ですが、足利方の細川船団が上陸を中断し、そのまま海上を東へ動いたため、軍団の後方に上陸されて挟み撃ちにされては大変と考えた新田軍が後方(東)へ下がったので、正成軍は足利陸上軍と水軍の上陸部隊の大軍の中に孤立してしまいました。
 小高い会下山に陣を構えた正成は、6時間にも及ぶ戦いの末、申の刻、残兵数十名(70余人『太平記』・50余人『梅松論』)と、広厳寺(一説によると民家。自刃後、そこが寺になったか?)で一族郎党とともにお経を10回程あげてから自刃しました。朝舜という僧の湊川合戦の聞書には、疵を受けた家臣は布引の滝の方向へ退いたことを書いています。
 6時間ぶっ通しで戦っていたとは考えにくいので足利軍はじわじわと攻めたとか、降伏を促していたとかされています。または、逃がそうとしていたのかもしれません。正成は最期の時、弟の正季に、「次に生まれてくるなら?」と問いかけると、正季は、「七度生まれ変わっても朝敵を倒したい(七生滅敵)」と答えたそうですが、これが戦中の七生報国という言葉をうみました。正成も「さもあらん」と答えたそうですが。
湊川神社  戦後、正成の首級は近くの阿弥陀寺(魚御堂)で供養されました。この寺院へは田地五十丁を寄進されました。さらに、京の六条河原に晒された後、正成を高く評価していた尊氏のはからいで、正成の首級を南河内の楠木館へ丁重に送り届けたとされています。敵将の首級をその一族の館へ送り届けるというのは滅多とない行為でした。また他説では、正成の自刃後、その首級を生き残った配下が密かに持って帰ったもとされます。摂津の徳蔵寺や河内の杜本神社に正成の首塚が存在しますが、観心寺にもあります。おそらく、正成だけでなく、後日、湊川で亡くなった一族の首級も残った縁者が集めて祀ったものと思われます。
楠木正成の首級を置いた  足利氏側の立場から書かれた『梅松論』には、正成の死について「賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべきとて、敵も御方もをしまぬ人ぞなかりける」と書いています。

法号 霊光寺大圓義竜卍堂

観心寺の楠木正成の首塚  

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