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楠木正遠(1263?〜1304? 1324?)

逆さ菊水紋正遠=正玄か?
 鎌倉時代の人物。楠木正成の父、もしくは正成の叔父で養父か(正成の実父が正成幼少の頃に亡くなったとも伝わり、1304年の死去は正遠ではなく、正成の実父で、後世、父と思われている正遠と混同されたか)? 楠五郎とも正康(これが実父?)とも正澄(これが実父?)とも、また楠木正玄(まさはる)と同一人物ともいわれます。また、最初は正遠(正玄)で後に正澄と称したとも言われていますので、よくわからないです。「遠」という字を「とお」と読まずに「はる」と訓ずるのならば、正遠=正玄の可能性が高くなります(遠には、【はる】か、という意味もあるそうです)。関連リンク→柳良諒様のproject-REN:【楠正儀】「楠三代」について考える(1)
 永仁3年(1295)の事として、『・・・近年雑掌讃岐公、河内楠入道、宗圓房等知行之刻、致種々非法・・・』(永仁三年正月日大部庄百姓の解状)と『讃岐公知行之刻、宗圓房、河内楠入道等、非法張行之間・・・』(東大寺文書・永仁三年閏二月日大部庄百姓等勒状)に、「河内」(河内国か)「楠入道」と名乗る者らの悪党が播磨国(兵庫県)の東大寺領大部荘に乱入したという記録がありますが、楠入道が正遠や正成とどう関連があるのかは判明しておりません。
逆さ菊水紋鎌倉幕府の御家人?
 『系図纂要』の「橘氏系図」によると、正遠は、1304年、42歳の時に鎌倉で死去したらしいです。悪党という立場から幕府に逮捕され鎌倉へ連れて行かれたのかもしれません。
 鎌倉時代の御家人の奉公の一つに鎌倉番役がありますが、この番役に正遠は鎌倉へ出向いていたのでしょうか?鎌倉番役として実際に鎌倉へ行ったのなら、それは鎌倉幕府の御家人としての「奉公」として働いたという可能性が出てきます。元寇の頃(1回目【文永の役・1274年】と2回目【弘安の役・1281年】の間)、西国には北条一門が守護に任命され、また、御家人でない武士にも元の襲来に備える九州への警備(異国警護番役)への仕事をさせたそうですが、そのころから楠木氏は、鎌倉幕府の「御恩と奉公」という主従関係を結ぶようになったのでしょうか?
 また、実際に「奉公」として鎌倉へ出向くというのは、普段住んでいる土地の惣領(棟梁)が行くのではなく庶子(嫡男以外で家督相続権のない男子)に番役の仕事を分担させることもあるので、楠木正遠は、その地(河内のどこか)での惣領でなかった可能性が出てきます。つまり正遠は、嫡男筋ではないことを意味します。楠木某という嫡男がいたか、別の名字の兄がいて、正遠は突然楠木氏を名乗ったか、楠木氏の養子になったか、先祖が名乗っていた楠木氏に復姓したか・・・。
逆さ菊水紋悪党、楠木一党
 鎌倉時代の農民は、品種改良や二毛作・三毛作などの農業技術の発達や鉄器具などの農耕具の発達により、収穫を増やし余剰財産を増やす者も現れ、その経済力を背景に作人から名主にのし上がったり、さらに名主が武士になり、近隣の仲間や同族たちとともに荘園を奪ったり幕府に逆らったりする集団が増えてきました。これを「悪党」といいます。
 また、貨幣経済の発展から、京や鎌倉などの大きな都市では特産物を売る定期市が立ち、専門職や手工業者も多く現れ、やがて、手工業者による同業組合である「座」が出来ました。楠木氏は一族の資金源である「辰砂」を京や鎌倉で売りに行っていたことが想像されますが、正遠は辰砂を鎌倉へ売りに行っていたのかもしれませんね。鎌倉には、南宋(中国)からの禅僧が多く来日し、不老長寿の妙薬として高僧や中国人たちに信じられていた水銀を高く売ることが出来たのでしょう。
 ちなみに、1263年生まれの理由は、この死去年齢から年齢を引いたものです。しかし、1305年に楠木正玄が八尾(矢尾)別当と戦い、正成の知略で勝利したという逸話もあり、もし『1304年、42歳の時に鎌倉で死去』なら、正遠=正玄が成り立ちません。しかし、1304年の死去が先に述べた通りの誤伝であれば、正遠と正玄は同一人物と思われます。
逆さ菊水紋橘氏?
 先の系図には、正成の母が信貴山阿門律師金剛別当の橘盛仲の娘とあるそうですが、この娘が正遠の妻ならば、後に正成が橘氏を称した理由の一つかもしれません。橘盛仲はこの中河内近辺の有力者と推測され、ひょっとしたら正遠は橘氏の養子になったのかもしれません。また、鎌倉時代は女性の地位も高く、結婚しても名前を変えないこともありました。地方である河内国では、鎌倉末期くらいまで、そのような風習が残っていた可能性もあります。正成には俊親という兄がいたという系図もあり、この俊親が橘氏、弟の正成が楠木氏、さらに弟の正季が和田氏を名乗ることになったのかもしれません。ただし、俊親を和田小次郎とする系図もあります。
 江戸時代の写本ではありますが、上嶋家本の「観世系図」にある観阿弥清次の母は「河内国玉櫛荘橘(楠)入道正遠女」である、との関連性も強く思います。玉櫛荘は中河内に位置し、すぐ南東には信貴山が、南西には橘島(現在の平野の加美・久宝寺近辺)ありますので、楠木氏は中河内から南河内にかけて勢力圏を確保していったものと思われます。
 尚、正成の幼名が「多聞丸」なのは、正成の母が子を授かることを祈った信貴山朝護孫子寺の本尊が毘沙門天であることから、多聞丸と名づけたとされます。
逆さ菊水紋追記
 橘盛仲や正遠は承久の頃の人物という説もあります。したがって、年代が離れているため、正遠が正成の父としては疑問符の残るところですが詳細は不明です。系図上の橘氏の系譜ならば、年代に少しの開きがあっても、その間の後継者が空白だったことも考えられますし、それとは別に、養子ならば、高齢の盛仲に正遠が養子に入ったことはありえると思います。盛仲の娘と云われているところも、養女かもしれません。
 また、『紀州続風土記』には承久の変後、多々良太郎重範が紀伊国(和歌山県)の野上庄にやって来て、楠掃部頭盛仲の女を娶り三子を成した記述があるそうです。この楠掃部頭盛仲と橘盛仲が同一人物かどうかも不明です。