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楠木正玄(1266?(63?)〜1324?)

逆さ菊水紋紹介
 鎌倉時代の人物。和田五郎。楠木左衛門少尉。初名は正康?父は和田正俊(楠木正俊)か。楠木正成の父または養父とされ、楠木正遠=正玄説もありますが、不明。
 八尾別当顕幸と河内国(大阪府)の中部あたりで合戦をした逸話も残っております。
 正和三年(1314)に出家し、左近入道道古と号したとされています。
 永仁三年(1295)の事として、『・・・近年雑掌讃岐公、河内楠入道、宗圓房等知行之刻、致種々非法・・・』(永仁三年正月日大部庄百姓の解状)と『讃岐公知行之刻、宗圓房、河内楠入道等、非法張行之間・・・』(東大寺文書・永仁三年閏二月日大部庄百姓等勒状)に、「河内」(河内国か)「楠入道」と名乗る者らの悪党が播磨国(兵庫県)の東大寺領大部荘に乱入したという記録がありますが、楠入道が正玄や正成とどう関連があるのかは判明しておりません。
 個人的には、正成の実父が、正成が幼い頃に亡くなった為(1304年、正遠?名前は誤伝?、鎌倉で死去)、途中から正玄が幼い正成の父(養父)になったのではと考えております。
 また正玄は、ある系図には1324年に亡くなったことになっておりますが、この年の9月には、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚した「正中の変」がありました。後醍醐天皇の息のかかった関係者が処分されていますが、ひょっとしたら、この倒幕計画に正玄も絡んでいたが、計画途中(正中の変の前)で亡くなった為、楠木氏の軍事力を十分発揮できず、倒幕計画発覚時には反幕府勢力方の挙兵が無かったのかったのかもと想像してしまいます。
 正玄は河内郡の熊野神領を預かっていたこともあって、往生院(東大阪市六万寺)の境内にある熊野権現を崇拝していたとも推測されています。楠木正行との関係が深い往生院も、祖父正玄の時代からの親交があったものと考えられます。