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トップページ(南木-楠木正成サイト-) >>  楠木正行(くすのきまさつら)【楠正行】

楠木正行(1326?〜1348)

逆さ菊水紋生い立ち
 南北朝時代の人物。楠木正成の子(嫡男)。幼名は多門丸。庄五郎。帯刀(たてわき)。河内守。後世、小楠公と称せられます。兄弟には、正時正儀らがいます。正行を「まさつら」と読むのは、『園太暦』に楠正連とあるので「まさつら」と読むものと思われます。櫻井の訣別、渡辺橋の美談などエピソードが残っております。
 幼少より病弱だったとか頭痛もちで苦しい日常だったと伝わります。正行の守役には恩智左近太郎満一がなりました。4〜7歳頃に河内国の往生院で過ごしたと云われています。
楠正行の像  元弘元年(1331)、父の楠木正成の挙兵時には弟の正時正儀らと共に伊賀国(三重県)へ疎開していたと云われています。翌元弘2年(1332)、叔父の楠木正季が迎えに来て河内に帰国した模様。元弘3年(1333)の千早城での戦いの時には、金剛山の頂上にある転法輪寺に入り、戦を逃れていました。
 また、延元元年(1336)の『櫻井の訣別』の話は太平記にしかでてこないということで、実際には無かったのではいう意見も多いようです。それには正行11歳という設定ですが、もし、正行という元服後の名前を名乗っていたのなら、もう3〜4歳年齢が上だったのではないかと思います。もっとも、この父子の別れの前に元服を済ませていたと言う話もあるそうですが・・・。また、当時、正行13歳という説もあるそうですが、11歳の子というのは、正行の2歳下の正時が該当しないでしょうか。仮に、正成と子供の別れの場面があったとして、その時の子供が11歳の正時であって、太平記の作者が13歳の嫡男正行と混同してしまったとは考えられないでしょうか?
 いずれにせよ、この時、正行は形見として正成から刀を貰い受けました。私個人的には、父子の別れの場面はあったと思っています。

青葉茂れる櫻井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下かげに駒とめて
世の行く末をつくづくと 偲ぶ鎧の袖の上に 散るは涙か、はた露か

正成、涙を打ち拂ひ わが子正行、呼び寄せて 『父は兵庫に赴かん
彼方の浦にて討ち死せん 汝は此處まで來つれども 疾く疾く歸れ、故郷へ』

『父上如何に、のたまうも 見捨てまつりて、我ひとり いかで歸らん、歸られん
この正行は、年こそは 未だ若けれ、もろともに 御供仕えん、死出の旅』

『汝を此處より歸さんは われ私の爲ならず 己れ討死なさんには
世は尊氏の、ままならん 早く先立ち、大君に 仕えまつれよ、國の爲』

この一刀は去にし年 君の賜ひし物なるぞ この世の別れの形見にと
汝に之を贈りてん 行けよ正行、故郷へ 老いたる母の待ちまさん

ともに見送り見返りて 別れを惜しむ折りからに またも降り來る五月雨の
空に聞ゆる時鳥 誰か哀れと聞かざらん 哀れ血に鳴く、その聲を


 数日後の湊川での合戦における正成の戦死に落胆していた遺族たちのところへ、敵の足利尊氏より正成の首級が送られてきました。それを見て衝撃を受けた正行は、形見の刀を取って自害しようとしました。しかし、寸でのところでに止められ、あらためてから正成よりの遺訓を説かれ、強く生きることを教わりました。その後、正行と弟達は武芸や学問にさらに励んだそうです。
 延元元年(1336)12月に後醍醐天皇は密かに京を脱出しました(南北朝時代の始まり)。それを正行ら一族郎党が河内国にて出迎えたとされています。河内を経由し大和国の吉野吉水院への潜幸時も、正行、和田次郎(正時か?)、真木定観、三輪西阿らが後醍醐天皇のお供をしたとされています。
 延元五年(1340)に正行は左衛門少尉と検非違使に任官し、河内の国司になりました。同年12月には、堺で高師泰を攻めました。堺は南朝の重要拠点でした。
楠木正成・正行父子の像
逆さ菊水紋破竹の連勝
 楠木正成の十三回忌を終え(5月)、正平二年・貞和三年(1347)8月10日に楠木正行は一族の和田新発意賢秀とともに紀伊国(和歌山県)の隅田城を攻めました。8月24日には河内池尻、9月9日には八尾城を攻め、9月17日の藤井寺や八尾教興寺での合戦では足利方の細川顕氏を破り、11月23〜26日には摂津住吉で、和田賢秀阿間了願の活躍で細川顕氏と山名時氏を破りました。『渡辺橋の美談』とは、この戦いで退却する敵兵が、京へ逃げるための一本しかない橋(渡辺橋)に殺到したため、多数の敵兵が川に落ちてしまいました。その敵兵達を正行は助けただけでなく、暖を取り食料を与え、怪我の手当てや衣類などを施してから帰してあげたというお話しです。その時に施された何人かの敵兵士達は正行に感じ入り、後に正行へ帰順し、正行最期の戦いに付き従ったそうです。
 これら河内周辺での正行の連勝によって全国各地の南朝方が勢いづきました。
往生院
逆さ菊水紋かゑらじと・・・
 正平三年・貞和四年(1348)、連敗中の足利幕府軍は本腰を入れてきました。高師直(もろなお)を大将に数万の大軍が河内の東条や吉野(奈良県)の南朝勢力に攻め込んでくることになりました。南朝の北畠親房は、楠木正行に迎撃を命じましたが、楠木の本拠の南河内の山城で戦うならいざ知らず、その少数の軍勢(数千)での野戦では討死せよということかと正行やその一族は思ったかもしれません。正行や正時和田賢秀は吉野の皇居で御簾をあげて龍顔を見せられた後村上天皇に拝謁しましたが、生きては帰らぬことを胸に誓いました(只これを最期の参内なりと思い定めて退出す)。
 正行ら一族郎党143人は、先帝である後醍醐天皇の御陵を参拝し如意輪堂に詣で、髻(もとどり)を切って仏前に奉納し、さらに、正行は鏃で御堂の扉に辞世の歌を刻みました。今も如意輪寺には
 「返らじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞ留むる(梓弓引き返さじと思ふよりなき数に入る名をぞ留むる とも)」
と正行が詠んだ歌を刻んだ扉が残っております。その意味としては、今度の戦いでは生きて再び帰られぬ身であるがゆえに亡き人の仲間入りをする名前を残して出発しますとの事ですが、その扉を過去帳に見立てて一族郎党が名前を刻みました。正行は後村上天皇より先の拝謁の時に「股肱の臣」(朕汝を以って股肱とす)だと声をかけられ、後村上天皇は正行らに生きて帰ってくることを望まれた様子です(退くべきを見て退くは後を全うせんが為なり)。しかし、正行や正時和田賢秀、和田新兵衛、和田紀六左衛門子息二人、野田四郎子息二人、楠将監(楠木正家?)、西阿子息開地良圓らの意志は固く一処にて討死しようと誓いあったそうです。
逆さ菊水紋四条縄手の戦い
 翌正月5日早朝、河内往生院城を出た楠正行軍は飯盛山や野崎付近に陣取っていた敵方の高軍と戦闘を開始しました。本隊とは別の精鋭部隊を正行自ら先頭に立ちながら行軍した楠木軍は、まず高軍の縣下野守を打ち破り、続いて四条村(東大阪市)あたりで大軍の武田信武を接戦の末に破りました。しかし、山側の道を通り楠木軍の中程へ攻撃を仕掛けてきた佐々木道誉の軍勢に後方部隊とのつながりを遮断された正行は徐々に包囲される形になりました。それでも正行は前進し、高師直の首を狙いました。決死の楠木軍は高軍からの弓矢の攻撃や高軍が新手を繰り出したため、味方の人数を減らしましたが、それでも師直の本営が見えるところまで突き進みました。正行の進軍に危険を感じた師直は北に陣を下げだしました。その頃、師直の部隊にいた上山六郎左衛門が危険を感じて大将の師直の兜を代わりにかぶり影武者となっていましたが、そんなことを知る由もない正行は大将兜目指して部隊をすすめ、敵本隊に肉薄し、ついにその大将首をあげました。ところが、歓喜もつかの間、偽の首と知った正行らは大いに落胆し、再度突撃を敢行しましたが、高軍の須々木という弓矢の名手をはじめ弓隊からの矢の雨がふり、満身創痍の正行・正時らは、もはやこれまでと、とうとう力尽き、正時と刺し違えて亡くなったとされています。また、これとは別に兄弟は別々の場所(砂山城あたり)で討ち取られたという説もあります。
 和田賢秀は正行・正時の差し違えの後、密かに敵軍に潜り込み、師直と刺し違えんと接近しました。ところが、敵勢の中に賢秀を見知った者がいたために見破られ、あと一歩のところで討ち取られました。この戦いは四条縄手の戦い(東大阪市)、もしくは四條畷の戦い(四條畷市)と言われています。
 正行・正時らは、大阪府の四條畷市の四條畷神社に祀られています。賢秀(源秀)はその近くに歯神さんとして祀られています。
瓢箪山駅校内
逆さ菊水紋四条縄手?四條畷?
 東大阪市の往生院近辺にいた楠木軍は歩兵隊だったようで、甲冑を着こんで戦闘しながらの行軍となると、そんなに遠くまで動けないと思われます。朝の6時くらいから夕方の4時くらいまでの戦いだったようですが、10キロ先の四條畷市駅前近辺まで戦闘しながら歩けたのだろうかと思います。当時の人は、皆健脚だったのでしょうか。途中、川幅が15メートルほどもある川があったそうで、そこを渡るのも大変だったろうと思われます。
 東大阪市の上四条町や縄手中学校から額田の辺りには楠木一族を弔う寺院がいくつか存在し正行や正時和田賢秀の供養塔、正行の首塚(額田)や首洗い池(枚岡梅林)もあり、四條畷市の墓所や神社とはまた違った存在感があります。また、東大阪市四条の小字山田というところは、もと四条村の「楠の井手」と云った地で、昔からこの土地を耕そうと鋤を入れた者には災いが訪れるとの伝承があり、南朝忠臣の戦死塚と考えられ、その発掘調査時には甲冑や刀剣、人骨、馬骨などが出てきたそうです。近くの往生院は楠木家の菩提寺であるように、近辺の村の人々も供養を受け継いできたと云われています。
逆さ菊水紋十念寺
 楠木正行・正時らが戦死した四條畷の合戦後、戦場付近の飯盛山の麓では、夜な夜な、戦闘中の声や音が聞こえ、付近の人たちが善事を行っても、やみませんでした。そこで付近の住民たちは、戦死した霊魂を慰めるため永禄年間に十念寺(融通念仏宗)をたて供養しました。
十念寺  その後、霊魂が鎮まったそうです。
逆さ菊水紋四條畷神社に祀られている25人
 楠正行・楠次郎正時・野田四郎、同人子息二人・楠左近将(左近将監か)正家・金岸某、同人舎弟一人、同人子息・関住(開住か)良圓、同人子息・和田新発意賢秀・三輪西阿、同人子息・和田新兵衛・河邊石掬丸・和田紀六左衛・譽田某、同人子息二人・阿間了願・大塚掃部介惟久・青屋刑部・畠山與三職俊・畠山文郎
-以上、四條畷神社より-
逆さ菊水紋弁内侍の至情塚
 後村上天皇から楠木正行の妻にとお声がかかった弁内侍。しかし、正行は戦を控え、いつ戦死してしまうかわからない身ということで、この縁談を断ったと云われています。
 「とても世に 永らうべくもあらぬ身の 仮りのちぎりを いかで結ばん」
正行は、四條畷の戦いで戦死し、非常に悲しんだ弁内侍は髪を切り尼になり、正行らの霊を弔うことを決意しました。
 「大君に 仕へまつるも 今日よりは 心にそむる 墨染の袖」
と詠み、自分の髪の一部を埋めたのが如意輪寺にある至情塚だと云われています。
逆さ菊水紋八大龍王総本山龍光寺
 生駒山上にある龍光寺には、楠公(正行)が四條畷へ向かう時(足利家の高軍と戦う前)、龍光寺に宿営し、「八大龍王の神前に額づき『我れ無き後も永へに八大龍王の清水の絶えたる事無きが如く、我が菊水の水も絶える事無し』と祈願せられ、以て八大龍王の本殿に菊水の定紋を残して、至誠の真を表し給ふ。」(龍光寺の説明書きより)とあります。正行率いる楠木一党が戦の前にここへ立ち寄り祈願したのでしょう。

文光寺雲山升竜仏海

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