トップページ(南木-楠木正成サイト-) >>  楠木正家(くすのきまさいえ)【楠正家】

楠木正家(?〜1348)

逆さ菊水紋生い立ち
 南北朝時代の武将。楠木正成の弟とも従兄弟とも想像されますが、関係は不明。左近蔵人または左近将監。一説に、正成の叔父の和田二郎右衛門尉正光の子で、初名正家、後に正邦と名乗ったともされます。
 延元元年(1336)に正家は正成の代官として常陸国(茨城県)の瓜連城に篭り、足利方の佐竹氏と戦います。この年の2月6日、常陸の久慈西郡で楠木正成の代官を攻めた佐竹六郎義冬が戦死していますが、この代官が正家とされています。武生城に集結した佐竹義篤は、南朝方の楠木正家や小田治久・廣橋経泰・佐竹幸乙丸を華房山や岩出河原に攻め、12月11日に瓜連城を落とします。やがて関東方面での南朝勢力が衰え、いつしか河内国(大阪府)の楠木正行のもとに移動したと思われます。正平三年(1348)正月5日、正行の最期の戦い(四条縄手の戦い)に従軍し戦死したとされています。
 正家は、大阪府の四條畷市の四條畷神社に祀られています。
四條畷神社
 河内の楠木氏とどういう関係なのかは不明です。もともと現地にいた氏族なのか、河内から派遣されたのか、想像が絶えません。
逆さ菊水紋四條畷神社に祀られている25人
 楠正行楠次郎正時・野田四郎、同人子息二人・楠左近将(左近将監か)正家・金岸某、同人舎弟一人、同人子息・関住(開住か)良圓、同人子息・和田新発意賢秀・三輪西阿、同人子息・和田新兵衛・河邊石掬丸・和田紀六左衛・譽田某、同人子息二人・阿間了願・大塚掃部介惟久・青屋刑部・畠山與三職俊・畠山文郎
-以上、四條畷神社より-