トップページ(南木-楠木正成サイト-) >>  和田賢秀(にぎたけんしゅう・にぎたかたひで)

和田賢秀(?〜1348)

逆さ菊水紋剛の者
 南北朝時代の人物。楠木正成の甥で楠木正氏楠木正季の子と伝わります。
 和田新発意賢秀(にぎたしんぼちけんしゅう)と名乗ります。
 賢秀は、正成の子、楠木正行とともに各地で戦いました。正平二年(1347)の住吉合戦では、楠木軍とにらみ合っていた山名氏清の陣に単身で小唄を歌いながら向かいました。続いて阿間了願も名乗りをあげて山名軍に進みました。あっけにとられた敵軍はあっという間に賢秀らに36騎を討ち取られました。山名勢はこの二人を取り囲み始めましたが、楠木軍の突撃があり、山名勢は総崩れになりました。
 この時、逃げる幕府軍が渡辺橋に殺到し、多くの兵士が川に落ちました。それらの敵兵を正行は助け出し、手当てや食料や衣服を施してから京に返したとされています(渡辺橋の美談)。
逆さ菊水紋最期の戦い
 正平三年(1348)の四條畷(四条縄手)の戦いでは、わずか数千(約三千)の楠木勢は数万(約六万)の高師直軍に突撃をし、師直の影武者を討ち取り善戦するも、やがて撃破され正行正時兄弟は刀を刺し違えて亡くなりますが、その直後、賢秀は単身敵軍にもぐり込み師直の首を狙うべく、ひそかに師直に接近しました。もう少しで師直を打てる距離に近づいた時に敵勢にいた顔見知りで元正行の部下であった湯浅本宮太郎左衛門に見破られ、賢秀は命を落としました。20歳くらいだっと云われています。
大阪府四條畷市の和田賢秀の墓
↑四條畷の和田賢秀墓(歯神様)
 賢秀は討ち取られるときに、敵兵の首に噛み付き睨んで放さず、それがもとで、その兵士も亡くなったのですが、この話から賢秀の霊を歯神様として祀っています。
東大阪市の歯神さま
↑東大阪市の歯神さま
四條畷市の歯神掲示板
↑四條畷市の歯神様の掲示板