- 生い立ち
- 南北朝時代の人物。楠木正成の子(三男)。左馬頭。左衛門尉(壺井八幡宮に楠左衛門尉橘正儀書、あり)。中務大輔従四位上。出生の年(1330年?)、没年令は不明。幼名は虎夜刃丸、小二郎丸、三郎。妻は新田義貞の家臣、篠塚伊賀守の娘。兄には正行・正時がいます。
南朝→北朝→南朝と立場をかえながら南北朝の合一に尽力するも、その統一された瞬間を知らずにこの世を去ったと言われています。
- 兄達(正行・正時)との別れ
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正平3年(1348)1月、四条畷の戦い(大阪府)で楠木正行軍が破れ、大和国(奈良県)吉野の南朝の後村上天皇らは賀名生(あのう)へと退去しました。その退去した直後に足利方の高師直が吉野に押し寄せ皇居や神社仏閣を焼き払いました。しかし、師直軍は長谷寺等の反撃にあい京へ引き上げていきます。
正行という一族の長(おさ)や正時・重臣を失った楠木党は、その弟の正儀がその中心に立ちました。正行や正時の年齢もはっきりとわからないのですが、かりに正行を20代前半としても正儀は20歳前かそれ以下であったと思われます。
兄達を失った正儀は、その直後に河内の石川河原で高師泰(途中1349年8月に畠山国清と交代)と一年程対峙しましたが、主に東条城にいたと思われる正儀の采配というよりも周辺の重臣たち(和田助氏ら)がかなり正儀を助けたことでしょう。
正儀は、正行の後を継いで左衛門少尉に任官し、河内の国司と守護になりました(南朝による任命)。
同年(1348)3月18日、師泰軍は東条城のすぐ近くの佐備谷口まで迫り、正儀は苦戦をしました。
翌正平4年(1349)の3月19日と4月22日にも佐備谷口に迫ってきた北朝軍をなんとか凌いでいたところ、閏6月、足利幕府の内部抗争(足利尊氏の弟直義の働きかけによる師直の執事職剥奪事件)がおこり、河内での苦戦がゆるんできました。 - 足利幕府の内紛
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この観応の擾乱(じょうらん)や正平の一統などの足利幕府の混乱に乗じて、南朝は京の奪回を目論見ます。
正平5年(1350)5月、正儀は河内国の富田林や丹下で畠山勢を攻め、追い払いました。同年12月、足利尊氏と不和になった弟の直義が南大和(奈良県)の越智氏を通して南朝に降ってきました。河内の石川城に拠っていた畠山国清も南朝に降りました。南朝では、この際に直義を殺害すべきだという意見もあったのですが、南朝の勢力を増大させるために直義と手を組みました。これは洞院実世などの強硬派の意見を押さえた北畠親房の意見が通った模様です。直義の南朝への帰順の影響で畿内周辺の武士達も南朝方へ集まってきました。その勢いに乗じて南朝軍は京へ進軍しました。正儀や和田正朝は男山八幡や津田(大阪府枚方市)に陣を張り、直義軍(畠山国清や細川顕氏・桃井直常・斯波高経・山名時氏・上杉能憲ら)は京に進軍し、翌年正平6年(1351)の1月、尊氏と義詮父子を京から丹波へ追いやりました。2月に正儀は河内の大饗を攻め地盤を固めます。しかし、その同じ2月、尊氏と直義は、不和の原因である家臣の高師直・師泰兄弟を殺害(上杉顕能が襲う)するや尊氏兄弟は和睦してしました。
これを機に、南朝と北朝の和議話が進みましたが、南朝の強硬派北畠親房や楠木一族では和田正武が直義の行動を非難し、和睦交渉が難航していました。それでも正儀の使者の神宮寺将監が直義と会ったりしていましたが、正平6年(1351)5月、和議が決裂しました。南朝の交渉責任者であった楠木氏は立場を失い、一時、正儀が北朝に降ったと噂されました。直義を失脚させようとした南朝側の首脳陣が交渉を決裂の方向に向けた模様です。7月には、和泉国で南朝の和田助氏らが大鳥や陶器を攻めましたが、8月には、尊氏と直義が再び不仲になり、直義が直義派の武士を引き連れて鎌倉へ下ります。
同年10月には、今度は立場が不利になった尊氏が南朝へ帰順してきました。直義追討の綸旨を南朝から受け取った尊氏は京に義詮を残し鎌倉へ進軍し、翌年(1352)の1月に直義を打ち破り、翌2月、捕らえた直義を毒殺してしまいます。この混乱に乗じて、南朝は尊氏のいない京を窺います。後村上天皇は賀名生の行宮を出て摂津国(大阪府)住吉、四天王寺を経て、伊賀国(三重県)から兵を率いて来た北畠顕能に護られて、閏2月19日、山城国(京都府)の八幡に行宮を移しました。
- 南朝、京をめざす
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その数日前に、関東の上野国(群馬県)で新田義貞の子、新田義宗と義興が挙兵し鎌倉へ進軍しました。奥州(東北地方)からは北畠顕信が下野国(栃木県)に南下し、信濃国(長野県)では後村上天皇の弟の宗良親王が征夷大将軍に任ぜられ動き出しました。
閏2月20日、伏見から北畠顕能、丹波方面からは千種顕経、鳥羽方面からは楠正儀と和田正忠が京を伺いました。そして正儀軍は京の七条大宮で細川顕氏と戦いこれを破り(細川業氏戦死)、六条の細川本隊をも打ち破りました(細川頼春戦死)。南朝は北朝の崇光天皇を廃し光厳、光明、崇光、直仁親王を拉致し男山に移しました。
しかし、近江国(滋賀県)に逃れていた義詮軍の反撃にあい、南朝は京を追われてしまいます。
正儀は摂津国の神崎で赤松光範との戦いに敗れ、河内へ撤退する時に、京からの足利勢が退路を断とうと仕掛けてきました。足利方の土岐勢に、土岐悪五郎頼里という豪の者がいて、16歳の和田正忠と戦いました。激闘の末、正忠は頼里に打ち勝ちました。しかし、後村上天皇の南朝方は北河内の男山に陣を構えましたが、じりじりと足利方に包囲され、脱落者が日に日に増えてきました。そんな中、正儀と正忠はこの包囲を破る為の兵を集めるために、密かに男山を脱出しましたが、本拠の東条へたどり着くと正忠は病死しました。正儀は男山の救援をすべく兵を募りますが、援軍を出せないでいました。そのため、太平記にも『正儀は父にも兄にも似ない者』と評されています。正儀の思うように兵が集まらなかったのでしょうか。5月21日、南朝方は一斉に脱出を計りましたが、足利勢の猛追(南朝の四条隆資戦死)にあい、後村上天皇もかろうじて賀名生へ戻れました。途中、神器を入れた櫃も田の中に捨てられていたのを、名和長年の弟の名和長生(ながなり)が背負って賀名生に持って帰えりました。
- 北朝、神器なく即位す
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この時、先に拉致した北朝の上皇らは楠木氏の東条城にいましたが、京を奪い返した義詮は、天皇がいないので困っていました。そこで南朝と交渉するために、等持院の祖曇が足利方の使者として東条城へやって来ました。この祖曇は楠木氏の縁者でした。正儀は上皇らを幽閉していることから、南朝が有利に交渉できると考えたでしょうが、南朝の強硬派である洞院実世が交渉を取りやめ、北朝の上皇たちを男山へ援軍を出さなかった正儀の側に置いておくのはよくないと考えたのか、6月に上皇らを賀名生の行宮へ移しました。しかたなく、北朝の天皇には光厳天皇の第3子の弥仁王が神器なしで異例の即位をしました(後光厳天皇)。これで南朝が拉致した上皇の人質としての意味がなくなりました。
- 正儀軍、河内・摂津で攻勢
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足利軍は正儀の東条城を攻めますが、逆に楠木軍の得意のゲリラ戦法に悩まされ、8月には、志紀(大阪府八尾市)で楠木軍は赤松光範と戦って徐々に地域を回復し、9月末には、さらに北部の摂津国渡辺(大阪市)や神崎で赤松氏と戦います。足利方の吉良満貞や石塔頼房が南朝に帰順し正儀と連合し、11月には尼崎で光範を打ち破りました。また九州では足利直冬が南朝に降りました。
正平8年(1353)の1月、楠木軍が佐々木秀綱を摂津国の北部で破り、さらに石塔軍も赤松則祐を破り、伊丹(兵庫県)まで進出しました。3月には足利方の仁木義長が東条城を攻めるも楠木党に撃退されます。吉良勢や北畠顕能がそれぞれ北摂や大和北部に進出し、南朝方はじわじわ京に迫ります。九州でも後醍醐天皇の子、懐良親王が菊池氏とともに太宰府に迫ります。5月には、渡辺橋で赤松軍を破った正儀軍は山城国の八幡まで進出し、6月には、正儀、和田正武、直冬党の石塔勢や吉良勢は京に攻め入ります。南朝の勢いに足利義詮軍は美濃国(岐阜県)まで撤退します。南朝方の2度目の京入りです。
しかし、義詮軍と赤松軍の反撃で、わずか1ヶ月半で南朝は京を明け渡し、正儀は東条城へ撤退しました。
正平9年(1354)4月、南朝の強硬派の指導者である北畠親房が62歳で亡くなりました。同年9月に後村上天皇は先に拉致した北朝の3人の上皇とともに河内の金剛寺に移りました。
正平10年(1355)1月、正儀は八幡に陣を張り、直冬とともに、足利幕府軍を破り入京しますが、2ヶ月ほどで奪回されてしまいます。この3回目の入京戦は、尊氏と直冬の私戦のような戦いで、正儀もほとんど八幡や男山近辺を守備し、あまり動かなかった模様。
この年(1355)の7月13日に、正儀の子、楠木正勝が東条で生まれた云われます。
正平12年(1357)、さきに幽閉されていた三上皇と直仁親王は5年ぶりに京へ帰還します。
正平13年(1358)4月、初代将軍足利尊氏がこの世を去り、義詮が2代目の将軍になります。
正平14年(1359)4月、後村上天皇の母、阿野廉子が亡くなります。
- 南朝の危機
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正平14年(1359)11月、河内守護の畠山国清が大軍を率いて河内へ侵攻してきました。南朝方では、中院通冬が北朝へ降りました。義詮と国清の軍が摂津と河内を南下して来ました。裏では和議の話が内密に進んでいましたが、翌正平15年(1360)になると北朝軍は八尾から廿山(富田林市)まで占領し、南朝方の丹下・誉田・俣野の河内の諸勢力や紀伊の湯浅氏や貴志氏が北朝に投降し、3月には和田助氏が北朝に寝返り、畠山軍が金剛寺を攻めました。4月には、熊野の湯川氏、大和の越智氏も北朝に降り、閏4月には紀伊の有田氏・湯浅氏も北朝に降り、正儀一族の楠木正久も戦死しました。
東条城の正儀は和田正武とともに赤坂城に移り篭城しました。しかし、その赤坂城も陥落し、正儀らは千早城に移りました。ところが、長期戦を恐れたのか、義詮は全軍をまとめて京へ引き返しました。その隙に正儀は失地の回復を計り、誉田の城を落としたり、紀伊の根来や熊野方面へ出兵しました。この間、後村上天皇は観心寺へ行宮を移しました。
- 佐々木道誉と和平交渉
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正平16年(1361)9月、足利幕府の内紛で執事の細川清氏がその職を剥奪され、その機に勢力を拡大した佐々木道誉が孫の秀詮を摂津の守護代にし、赤松光範を解任しましたが、光範は不満を抱きます。正儀はこの時に和田正武とともに天神の森(現・大阪天満宮近辺)に陣を張りその摂津方面を伺いました。神崎川を挟んで正儀軍と佐々木秀詮軍が戦い、秀詮と弟の氏詮が戦死しました。
同年10月、佐々木道誉と対立した細川清氏が南朝に帰順してきました。その清氏は早く京を攻め返したいので、これを機に後村上天皇は正儀に京への出陣命令を出します。12月、四条隆俊を大将に京へ進軍した南朝軍に幕府軍は京を追われますが、このとき、佐々木道誉は退去するときに、自邸を清掃し床の間に花を生けておいたという話が残っています。京に入った正儀は佐々木邸を見て道誉の心意気を感じたのでしょう、数日後、体勢を立て直して近江から反撃してきた幕府軍に南朝方が追われ退去するときに、今度は正儀が道誉邸を清掃し返礼として太刀と鎧を置いていきました。
南朝方は、結局、約20日ほど京を占領しましたが、足利軍と戦わずに退却しました。
正平17年(1362)1月、細川清氏は本国の阿波国(徳島県)に帰還しましたが、義詮は清氏の従兄弟の細川頼之を討伐に向かわせました。正儀は清氏を援護すべく摂津で頼之の船を焼いたりしました。しかし、7月には、讃岐国(香川県)で清氏は頼之に破れ亡くなりました(白峰の戦い)。
同年8月、正儀は正武とともに摂津守護代の箕浦定俊を攻め、敵兵を追い散らし湊川まで攻め上りました。しかし、京から義詮が斯波義種を援軍に出すと、正儀はさっと撤退し、東条に帰還いたしました。戦線の拡大は避けたかったのでしょうか、それとも、もう、戦(いくさ)はこりごりなんでしょうか。
正平19年(1364)7月、佐々木道誉は興福寺の僧公順と四天王寺の僧東光を正儀のところへ遣わし、和平の話がなされていました。しかし、同月、正儀の母(敗鏡尼)が亡くなりました。
正平22年(1367)4月、それまでの正儀と道誉の根回しで和平交渉が進んでいましたが、南朝の使者、葉室光資を京へ送り、ようやく和議が実現しそうでしたが、南朝の条件文に「武家降参(降参を許す)」という文言があり、義詮が怒り実現しませんでした。それでも正儀は代官の河野辺駿河守を京へ遣わし、和平交渉は続きましたが、南朝側は北朝の降伏という姿勢を変えませんでしたので交渉は成立しませんでした。南朝の首脳部には北畠顕能が内大臣に就任し強硬派が固まりつつありました。そんな中、和平派の前大納言洞院実守が北朝に走りました。
9月、将軍義詮は病床につきました。10歳の足利義満が政務に就きましたが若すぎる為、細川頼之が義満を補佐しました。12月、義詮は38歳という若さでこの世を去りますが、死ぬ前に、楠木正行の側に埋めて欲しいと話していたそうです。おそらく父の尊氏が義詮に、楠木正成・正行父子の生き様の話をしていたからとされています。 - 正儀、北朝方へ
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正平23年(1368)3月、正儀の理解者である後村上天皇の崩御後、強硬派の長慶天皇が南朝の天皇に立つと、和平推進派の正儀の立場も悪くなりました。また、幕府側の管領で名宰相の細川頼之からの北朝への招きもありました。頼之は南北朝の和睦の話も持ち出し、それと同時に河内に兵を進め八尾城を落としました(真木野縫殿介と秋山新九郎戦死)。
数度の北朝への招きの使者が正儀のもとにやって来たことでしょうが、ついに正平24年(1369)、正成の三十三回忌も済んだこともあり、苦悩の正儀は幕府側につくことになりました。正儀は幕府から左衛門督と河内と和泉の国司任命され、さらに河内と和泉、摂津の住吉郡の守護職をあてがわれます。このことから、正儀が降伏者という待遇ではない事がわかります。正儀は河野辺駿河守を河内守護代に、また、橋本正仲を摂津住吉郡の守護代に任命しました。和泉の淡輪氏と大和の越智氏は正儀に従いました。楠木党の分裂です。
しかし、長慶天皇は、正儀の子、正勝・正元をはじめ一族の和田正武や橋本正督に正儀の東条城を攻めさせます。細川頼之は赤松光範に援軍を出させ、南朝軍を牽制しました。父子や同族との争いを避けたい正儀は東条城を脱出し、天王寺、さらに榎並まで撤退し、4月に京へやってきました。京では頼之に付き添われて義満に謁見しました。その後、正儀は中務大輔に任命されました。
正平25年(1370)5月、幕府軍の宇都宮氏総が南河内へ侵攻してきたときに正儀は東条城に戻りましたが、南朝の強硬派との戦が避けられなくなりました。同年11月、和田正武と正勝は東条城を攻めました。幕府からは細川や山名の援軍があり、正儀は正武や正勝を退けました。
- 正儀の苦悩
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建徳2年(1371)3月、北朝では後円融天皇が後光厳天皇天皇の跡をついで即位しました。
同年5月、四条隆俊と和田正武が正儀の東条城へ攻めてきました。防戦一方の正儀は細川頼之に援軍を請いました。このころ幕府では、頼之の命令に従わない将兵が増えていましたが、ようやく6月に援軍が河内にやって来ました。幕府軍がくると南朝勢力は兵を引き、幕府軍が撤退するとまた南朝軍が正儀を攻める、そのような展開でした。しかし夏がすぎてから頼之は河内に兵を集め、南軍主力の湯浅党を瓜破(大阪市平野区)で打ち破りました。
文中2年、淡路国(兵庫県)の守護、細川氏春と赤松範資の軍勢ととも正儀は、沈痛の面持ちで天野山金剛寺(大阪府)の行宮を攻め、四条隆俊らを討ち取りましたが、かなりの激戦のため楠木軍の消耗も激しかったと言われています。
正儀は、一族や民衆が無益に戦い続けなければならないという苦悩と、南朝の強硬派を何とかしなければ南北朝の和平が実現しないという大志の実現のために、北朝方の勢力に加わったものと思われます。父正成や兄達の生き様はよくわかっていたと思いますが、明け暮れる戦乱と疲弊していく人や土地を見ていると、南北朝の和平こそが大事と考えていたことでしょう。正平24年頃は、南朝の勢力も縮小しましたが、同族の中にも、正儀の意見に同調する者がたくさんいたことでしょう。だからこそ、後に正儀は南朝に戻ってくることが出来たのだと思います。もちろん足利幕府内での細川頼之の失脚もあったでしょうが。
文中4年(1375)、南朝方の和泉・河内の国司である橋本正督と和田助氏が北朝へ属しました。正督は紀伊の湯浅党を攻めました。正督は3年後に南朝へ戻り、天授6年(1380)に山名氏清と戦って戦死します。 - 正儀、ふたたび南朝へ
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天授5年(1379)、細川頼之は幕府内の権力争いに破れ、やむなく義満は頼之の管領職をはずし四国へ帰国させました。正儀は、北朝での大きな後ろ盾を失いました。正儀の立場は日に日に落ちていきました。
南朝では和平派の後亀山天皇が即位していたこともあり、弘和2年(1382)閏正月、正儀は大和の越智氏と和泉の淡輪氏とともに南朝に戻ることになります。官位も元の左衛門督に戻りました。幕府は、新しく河内守護に任命した畠山基国と山名氏清に正儀を攻めさせ、平尾(堺市美原区)の戦いでは楠木氏は一族6人と郎党140人を失ったとされます。東条も赤坂も山名勢に追われ、千早城に篭ります。
同年8月には和田正武が病死しました。翌弘和3年(1383)の3月には懐良親王が、7月には北畠顕能が亡くなり、ますます南朝の勢いが落ちていきました。また、この年までに、正儀は参議に任命された模様です。
元中2年(1385)8月、正勝は紀伊の三ヶ谷で山名義理と戦いますが破れます。9月、金剛寺に攻めてきた幕府軍を撃退する為に正儀は出陣します。
数年後に正儀は亡くなったとされています。没年月は不明ですが1388〜89年頃とされていますが、南北朝の合一を見ることなくこの世をさったのでしょうか?はたまた、どこかの隠棲地で亡くなったのでしょうか?
大阪府枚方市の楠葉の久親恩寺の過去帳には、元中八年(1391)、楠木正儀は8月22日に62歳で赤坂にて討死したとあるそうです。正厳孝儀大居士とも書かれているとの事です。
- 正儀のエピソード@
- 楠木正儀は野伏300人を巧妙に指揮して足利方を打ち破ったときに、逃げ遅れた敵兵が川に溺れるのを見て、「北軍ノ赤裸ナル者ニハ小袖ヲ着セ手背ヒタル者ニハ薬ヲ与へ・・・」とあります。兄の正行にも同じような話が残っていますね。
- 正儀のエピソードA
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赤松光範の家来に宇野六郎という人がいました。彼は楠木軍との戦いで光範の身代わりとなって討ち死にしました。その六郎の子に熊王という男の子がいました。幼いながらも熊王は、父の仇を討ちたい、楠正儀に近づいて討ちたいと強く心に決めていました・・・。
そんなある日、楠木党の兵庫介忠元という人が、さまよっている男の子を見つけました。その子は、亡くなった父の遺領を同じ一族が狙っていて、赤松光範も同心している。それで追い出されたのだと言いました。それを忠元から聞いた正儀は哀れに思い、召抱えることにしました。熊王の正儀への接近策は、成功したのでありました。
しかし、熊王は正儀やまわりの者にかわいがられ、やがて恩を深く感じるようになりました。しかし、父の仇を討ちたい・・・、そんな複雑な想いのまま月日は流れていきました。熊王が15歳になった時、正儀は熊王に領地を与えようとしましたが、何の手柄も立てていないことを理由に熊王は断りました。あくる年に父の七回忌を迎える熊王は、その父の忌日の夜に正儀を討とうと心に誓っておりました。何も知らない正儀は、その日、『今日は吉日なので熊王に元服させ、和田小次郎正寛と名乗らせよう。』と言い、さらに天皇より賜った具足を与えました。熊王は恩に感じて涙を流しました。今夜に討とうと思っていましたが、今この時こそ討つ時だと思っても、それまでの恩義や元服の事を思うととても討てません。しかし、何度か心を取り直して討とうと思っても刀のつかに手をかけられません。とうとう熊王は大声で泣き出しました。どうしたのかと尋ねた正儀に、『かくなるうえは、殿のためにも父のためにも、私は死ぬより他に道は無い』と熊王は言い、すべてを正儀へ打ち明けたのでした。熊王は所持していた刀を取り出して死のうとしたところ、涙ながらに聞いていた正儀たちに止められたのでした。
熊王は、その刀で髪を切って六万寺往生院(東大阪市)に入って正寛法師と名乗ったそうです。その後院外に一歩も出なかったそうです。1428年2月5日死去。
- 正儀のエピソードB
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楠木正儀とともに戦ってきた篠崎六左衛門久親(父は篠崎嘉門で湊川の戦で戦死)は楠葉(大阪府枚方市)の人で、ある時、冑に入れていた弁才天女の夢告により、家族を残して出家し元梅と名乗り、修行の旅にでました。
残された妻はやがて病死し、その子供達(姉と弟)は泣いていました。そこに修行僧がやってきてお経をあげました。その修行僧が楠葉道心(元梅か)で残された姉弟の父親でした。道心は父であることを語らずに去っていきました。
この話を聞いた正儀は、姉弟を引き取ろうとしましたが、姉は父から贈られた弁才天女を持って出家し、篠崎禅尼と呼ばれ、薬師堂の近くに草庵を結び、後の久親恩寺(親乞い薬師)になったとされています。
なお、弟は正儀が引き取ったのですが、私は、正儀の猶子(血縁関係のない親子関係)になったのかなと想像しています。
正厳孝儀大居士
小光寺秀峰義瑞