トップページ(南木-楠木正成サイト-) >>
楠木正勝(くすのきまさかつ)【楠正勝】
楠木正勝(1355?〜1408?)
- 生い立ち
- 南北朝時代の武将。楠木正儀の子。出生の年は不明。小太郎。次郎太郎。右馬頭。左馬権頭。母は篠塚伊賀守重保の娘か。
父の正儀が北朝に身を寄せるも、父に従わず河内国(大阪府)で南朝方として活躍。日増しに南朝の勢力が衰えていく中、河内周辺を転戦するも勢力振るわず、楠木氏の拠点、金剛山の千早城も元中九年(1392)に落城し、正勝は兄弟(楠木正元・楠木正秀か)とともに脱出、その後の行方をくらましました。大和国(奈良県)の川上村の方へ逃れたとか、天授五年(1379)に、すでに仏門に入っていたとも、全国各地を回り虚無僧の元祖になったとの伝承も残っています。その曹洞宗の僧として全国を行脚した傑堂能勝(けつどうのうしょう)は正勝であるとも言われております。
元中五年(1388)8月、紀州和歌浦(和歌山県)からの帰京中の足利幕府第3代将軍の足利義満を討たんと出兵するが、逆に河内国平尾城近辺で足利方の山名氏清に攻められ敗れてしまいます。
応永六年(1399)大内義弘の応永の乱に楠木二百余騎が大内方に味方したとありますが、これを率いたのが正勝だされていますが、すでに仏門に入って諸国行脚に出ていたとすれば、この楠木二百余騎を率いたのは、正勝の弟正秀なのでしょう。
賢応全心大禅定門