トップページ(南木-楠木正成サイト-) >>  楠木正秀(くすのきまさひで)【楠正秀】

楠木正秀(?〜?)

逆さ菊水紋紹介
 南北朝時代〜室町時代の人物。右馬頭。楠木正儀の子か孫。または、和田法眼良宗の子で正儀の養子になったとも。
 応永六年(1399)、和泉国(大阪府)の堺で起きた大内義弘の応永の乱に『楠木二百余騎、今迄は眼前の御敵にて今更降参申さんこと無益なりとて、大和路に懸かりて行方不知落失せぬ・・・』(応永記)とあり、楠木氏が大内氏方について足利義満と戦ったとあります。正秀は、これに楠木正勝とともに参戦し、義弘が負けた時に堺の城から脱出し行方をくらましましたとされています。その後、仏門に入ったとも、大和国(奈良県)や伊勢国(三重県)方面に逃れたともされます。ただし、この時には、正勝はすでに仏門に入り各地を行脚し修行をしていた説もあり、楠木二百騎には、正秀や正盛(のちの正顯)や正平らが該当し、彼らが応永の乱に参陣したのではないかとも思います。
浄行寺
逆さ菊水紋禁闕の変(きんけつのへん)
 嘉吉三年(1443)9月23日、楠木正秀(楠木次郎)は、日野有光・資光、越智伊予守、湯浅九郎等とともに、後亀山上皇の子孫、金蔵主・通蔵主兄弟、もしくは後亀山上皇の皇孫(小倉宮の皇子)の教尊や源尊秀(尊秀王)を奉じて内裏に侵入し、三種の神器の神璽と宝剣を奪いましたが、すぐに追手に追われました。宝剣はすぐに清水寺の前に落ちていたので天皇の元へ戻りましたが、神璽は持ち去れました(約15年間、京に戻ってこなかった)。正秀らは京を逃れ比叡山延暦寺に立て篭もりますが、延暦寺の僧兵の協力も無く、やがて追い詰められました。しかし正秀は逃亡したとされます。
禁闕の変にみえる正秀は、正儀の子の正秀とは別人物(楠木正理)かもしれません。
正成─正儀─正秀・・・これだと禁闕の変のころは80歳前か。
正成─正儀─正勝─正秀・・・年代的には妥当か。
正成─正儀─正秀─正秀・・・世襲のように、父親の名前を受け継ぐことも考えられます。
画像は正秀のお墓と伝わる正光山浄行寺(大阪府豊中市走井)