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楠正顯(正顕)(くすのきまさあき)
楠正顯(正顕)(1377?〜1438?)
- 生い立ち
- 南北朝時代から室町時代の人物。楠木正勝の男。幼名は多聞丸。兵衛助または兵工助。初名、正盛。伊勢国(三重県)の北畠家に仕えてからは正顯(正顕)。祖父は楠木正儀か? 子には正重、正理、正威。
応永六年(1399)、大内義弘が足利義満に反意を抱き堺(大阪府)で挙兵しました。南河内の千早城の落城以来、隠れていた楠木正勝・正秀兄弟らが大内氏の味方として組しました(正勝はこれ以前に亡くなっている説もあります)。足利幕府軍と約3ヶ月間の攻防の末、この年の12月に堺城は落城しますが、この城に篭っていた楠木一党を、足利幕府方として参戦していた北畠顕泰は配下の鹿伏兎忠賀に命じて密かに救出し、北畠氏の本国である伊勢国へ連れて帰りました。
その救出された楠木一党のなかに正顯がいたとされています。正顯は鹿伏兎谷平ノ澤に住しました。伊勢国司北畠満雅は応永十九年(1412)9月、正顯に北伊勢の楠山城の補修をさせ、その城の代官にさせています。城主には、正顯の三男の正威が楠山城の4代目となりました。