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楠正威(1408〜1443)

逆さ菊水紋生い立ち
 室町時代の人物。楠正勝か? 妻は岡盛弘の息女。
 応永6年(1399)、大内義弘が足利義満に反意を抱き堺(大阪府)で挙兵しました。千早城の落城以来、隠れていた楠正勝正秀兄弟らが大内氏の味方として組しました。足利幕府軍と約3ヶ月間の攻防の末、この年の12月に堺城は落城しますが、この城に篭っていた楠木一党を、足利幕府方として参戦していた北畠顕泰は配下の鹿伏兎忠賀に命じて密かに救出し、北畠氏の本国である伊勢国(三重県)へ連れて帰りました。
楠山城址
逆さ菊水紋伊勢、楠山城主(4代目)
 応永19年(1412)、北畠顕泰は救出した楠木一党の楠正盛(のちに正顯)の三男正威を、北伊勢の楠山城の城主としたのでした。しかし、正威は幼少なので、父の正顕が代官とされました。応永31年(1424)正月、正威と名乗りました。
逆さ菊水紋禁闕の変(きんけつのへん)
 嘉吉3年(1443)9月23日、正威の大叔父?叔父?楠正秀や日野有光、越智伊予守、湯浅九郎等は、後亀山上皇の子孫、金蔵主・通蔵主兄弟、もしくは後亀山上皇の皇孫(小倉宮の皇子)の教尊を奉じて内裏に侵入し、三種の神器の神爾と宝剣を奪いましたが、すぐに追手に追われ、比叡山に篭居中、正威は戦死しました。宝剣は清水寺で見つかりましたが、神爾はこの残党が持ち去ったとされています。
 尚、楠木次郎という人物も、この禁闕の変で戦死したようですが、ひょっとしたら、正威が幼名三郎丸だったので、正威の次の兄(楠正理)かもしれませんね(一説に楠正忠)。