- 紹介
- 室町時代の人物で、刀で有名な千五(千子)派村正の流れ。伊勢楠氏の末裔で、後、永享年間(1429−1441)か寛正年間(1460-1466)に河内国(大阪府)の茨田郡出口に刀を作るところ(駐槌地)を設けました。出口正重。刀匠。
- 初代・正重(1403−1456)
- 大内義隆の応永の乱(1399年末)に楠木二百余騎が参戦しましたが、やがて大内方が足利軍に破れ、楠木一党は大和路に落ち周辺地域に撤退しました。足利勢にいた北畠勢はひそかに楠木一党を匿うことを考え、北畠氏の治める伊勢国に導きました。楠木一党は河内や大和国(奈良県)等に隠れましたが、やがて、伊賀・伊勢(三重県)方面に流れてくる者もあり、伊勢国の鈴鹿郡鹿伏兎谷平ノ澤で北畠氏の保護の下、住まわせてもらいました。その中に楠正盛という人物がいて、正盛は、楠木正儀の孫、楠木正勝の子とされ、北畠氏の通字の顯の字をもらい、楠正顯と名乗りました。
正顯の長男が正重といい、次男が正理、三男が正威と言います。この三男の正威は北伊勢の楠山城の城主となりますが、正重は刀匠の千子村正の弟子になりました。
正重は、幼名を多聞丸といい、平ノ澤太郎左衛門尉と名乗ったとされます。鹿伏兎谷平ノ澤金場に住み、桑名の千子村の住人、村正の弟子になり、刀匠として生きました。康正二年(1456)2月没。54歳と伝わります。
- 2代目・正重(1427−1488)
- 刀匠正重の2代目。母は伊勢の引田将監胤澄の女。二王丸。兵庫助。川俣氏の祖とも。
伊勢国の鈴鹿郡鹿伏兎に住み、千子の住人、刀匠村正の弟子になったと伝わります。長享二年正月没。62歳と伝わります。
- 3代目・正重(1449−1525)
- 刀匠正重の3代目。川俣左近太郎。北伊勢の楠村にも住みました。大永五年6月没。77歳と伝わります。
- 4代目・正重(1481−?)
- 刀匠正重の4代目。母は高松七郎右衛門尉の女。伊勢の千子村に住み、後に雲林院に住んだと伝わります。
- 河内の出口
- おそらく、初代か2代目の正重が河内国の茨田郡出口に駐槌地を作ったと推測されますが、河内は楠木氏の先祖の本拠地でもあり、京にも近い事から、刀匠をしながら身を隠し、来るべき時に備えながら情報収集をしていたのではないでしょうか。1400年代の楠木氏は足利幕府から常に追求され朝敵とされていましたので、楠の名を隠しながら生きておりました。名を変え刀を作ることで、足利幕府側の人物との接触も可能だったと思われます。刀に限らず、刃物は生活必需品でありますので、武士や農民、商人、大工などの職人、仏像を彫る仏師などなど、あらゆる階級や職業の人たちとの接触があったと思われます。
また出口といえば、浄土真宗の蓮如上人がこの頃に説法を行ったところで、近辺のたくさんの寺が浄土真宗に改宗されております。正重が出口の地に現れたのは、とても意味深く感じられます。