- 紹介
- 南北朝時代の人物。父は和田正遠、もしくは、和田高家。和田正興とも伝わります。高家は兄とも伝わりますので、正遠-高家-正武という流れは家長を継いだ順番かもしれません。大阪府岸和田市の野田町には楠木一族の和田氏の居城があったと伝わる所があり、高家と正武が移ってきたと伝わります。南朝方の有力武将として活躍しました。和泉国(大阪府)の岸城城主。
- 楠木正儀と共に歴戦す
-
観応の擾乱の混乱期に、足利幕府の初代将軍足利尊氏の弟足利直義が南朝に降伏してきました。しかし直義はすぐに尊氏と和睦をし北朝方に帰ります。正武は北畠親房らと同様に直義の行動を批判しましたので、その頃に楠木正儀がすすめていた北朝と南朝の和平交渉も難航しました。正儀は和平派であったと云われていますが、逆に正武は強硬派だったと評されています。
正平8年(1353)5月、渡辺橋(大阪市)で足利方の赤松軍を破った正儀は山城国の八幡(京都府)まで進出し、6月には、正儀・正武と、南朝方に就いていた足利直冬党の石塔勢や吉良勢は京に攻め入ります。南朝方の勢いに足利2代将軍足利義詮は美濃国(岐阜県)まで撤退します。この戦いで南朝方は2度目の京入りを果たします。しかし、すぐに北朝方に追われてしまいます。
正平14年(1359)11月、北朝の河内守護、畠山国清が大軍を率いて河内へ侵攻してきました。次々に南朝勢力を降伏させていきました。翌正平15年(1360)には、東条城いた正儀は正武とともに赤坂城に移り篭城しました。しかし、その赤坂城も陥落し、正武は正儀らとともに金剛山の千早城に移りました。しかし、長期戦を恐れた足利方は軍を引き上げ、その後すぐに楠木・和田勢は失地を回復しました。
正平16年(1361)正儀と正武は天神の森(大阪天満宮辺り)に陣を布き、神崎川周辺から浄光寺近辺(兵庫県尼崎市)を攻め、北朝の佐々木秀詮と弟の氏詮が戦死しました。
正平17年(1362)正武は正儀とともに北朝の摂津守護代の箕浦定俊を攻め、敵兵を追い散らし湊川(兵庫県)まで攻め上りました。しかし、京から義詮が斯波義種を援軍に出すと、正儀はさっと撤退し、河内の東条に帰還いたしました。
- 和田正武、楠木正儀と戦う
-
苦悩の南朝武将、楠木正儀は正平24年(1369)北朝方になりますが、同年春、南朝の長慶天皇の命により、和田正武は橋本正督とともに正儀の東条城を攻めます。正武にしてみれば、なぜ正儀が北朝方についたのか、という無念の思いや憤りもあったことでしょうが、やはりずっと共に戦ってきた一族を攻めなければならないのは、つらいことだったと思われます
正平25年(1370)11月にも、正武は正儀の子楠木正勝と共に正儀の東条城を攻めました。足利幕府からは細川や山名の援軍があり、正儀は正武や正勝を退けました。
翌建徳2年(1371)5月、またまた正武は、今回は四条隆俊と共に正儀の東条城へ攻めました。防戦一方の正儀は幕府の重臣で正儀の良き理解者、細川頼之に援軍を請いました。幕府軍がくると南朝勢力は兵を引き、幕府軍が撤退するとまた南朝軍が正儀を攻める、そのような展開でした。
天授4年(1378)、正武と橋本正高らが北朝方になっていた和泉国の雨山城と土丸城を奪い返します。しかし北朝方の細川頼元と山名氏清らの軍勢に両城を陥とされ大和国吉野に逃れます。
- 楠木正儀、再び南朝へ
-
南朝では長慶天皇に代わり、和平派の後亀山天皇が即位していたこともあり、弘和2年(1382)閏正月、正儀は大和国(奈良県)の越智氏と和泉国(大阪府)の淡輪氏とともに南朝に戻ることになります。はたして正儀と正武はうまく対面できたのでしょうか? 同年8月、南朝勢力の挽回に尽くした正武は病死したとされます。