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楠木久子(1304〜1364)

逆さ菊水紋生い立ち
 楠木正成の夫人。名は久子(観心寺の過去帳によるとされます)。
 嘉元二年(1304)、河内国(大阪府)南河内郡東条村字甘南備小字矢佐利に生まれます。兄または父は南江備前正忠。
楠母子像  元享三年(1323)、正成に嫁ぎます。松尾季綱が媒酌人になったと云われます。子には、正行正時正儀・正秀・正平・朝成の6人の名が残っています。
 元弘元年(1331)9月、正成は後醍醐天皇の要請に応じ南河内の赤坂城で挙兵しますが、その時に、久子達一族は観心寺に入り、戦乱を避けました(一説には、子供達は伊賀へ避難した)。
逆さ菊水紋正成の死
 延元元年(1336)5月25日、湊川の戦い(兵庫県神戸市)において、夫の正成やその弟正季、久子の実兄(または父)の南江正忠が足利尊氏率いる大軍に敗れて戦死しました。尊氏は生前から正成を慕っていましたので、正成の首級を楠木氏の千早城へ丁重に送り、安間七郎と生池兵衛が城外で受け取りました。安間達は正成の首を観心寺の中院に持っていきました。この中院観心寺の坊の一つで、楠木刑部大輔正俊(一説に正成の祖父)の頃からも縁があったそうです。楠木氏の累代の菩提院でもあり、正成も幼少の頃にここで僧の瀧覚に学びましたが、この時、久子はこの中院にいました。正成の首級を見た久子や正行ら子供達、一族郎党は、皆号泣いたしました。
 そんな中、正行は卒然と立ち上がり、涙をおさえながら持仏堂に入り、刀で自害しようとしているところを、後を追いかけて入ってきた久子が止め、正行に生きることを諭したと云われています。
 その後、正成の首級は観心寺の境内に埋められ、五輪塔が建てられました。
逆さ菊水紋敗鏡尼と称す
 正成の死後、久子は正行ら6人の子供たちを正平3年(1348)まで養育しました。この正平三年の1月5日、河内の四條畷(四条縄手)の戦いで、正行正時が一族郎党とともに戦死しました。息子たちの死や正成の13回忌が済んだこともあったからか、この後久子は生まれ育った甘南備に隠棲しました。敗鏡尼と称し正成正行正時をはじめ、一族郎党の菩提を弔いながら余生を過ごしました。
観音堂
 その住んでいた庵を楠妣庵(なんぴあん)といい、また久子が念仏する時に用いた十一面観音菩薩立像も、現在この楠妣庵の観音堂に残っています。
逆さ菊水紋楠妣庵観音寺
 敗鏡尼こと久子は、正平十九年(1364)7月17日、病の為、61歳で他界しました。楠妣庵玉山蒲円大禅定尼。
敗鏡尼の墓  敗鏡尼の死後、後醍醐天皇の持仏であった千手観音菩薩を本尊としていた峰條山観音殿を正儀が観音寺と改め、さらに楠氏の香華寺として藤原藤房を住まわせていましたが荒廃し、その後大正から昭和時代に再興され、禅宗の楠妣庵観音寺として現在に至ります。
観音寺本堂  住所:大阪府富田林市大字甘南備1103