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楠正忠(くすのきまさただ)
楠正忠(1507?〜1583)
- 生い立ち
- 戦国時代の人物。楠正充の子。十郎左衛門正孝。後に正忠。
伊勢国(三重県)の神戸具盛(とももり)の属将で楠山城の6代目城主。一時、仏門に入り、涼静、または実浄と名乗りました。
- 信長に抵抗
- 天文2年(1532)、父の正充が死去し、おそらくその後すぐに、城主になったと思われます。
弘治2年(1557)、南近江(滋賀県)に勢力を張る六角入道から諱ををもらい貞孝と名乗ります。
永禄10年(1567)2月、尾張国(愛知県)の織田信長の配下、滝川一益の軍勢が北伊勢(三重県)に侵攻してきます。一益は、次々と北伊勢の豪族を降していきますが、神戸氏と関氏は抵抗しました。楠山城主の貞孝も奮戦いたしました。同年8月に信長自身が1万の大軍を引き連れて桑名に陣を張り、正忠の子、楠正具の篭る八田城を攻めました。正具は少数の兵(約500)で信長軍の攻撃を何度撃退し、信長に憎まれたと言われます。
翌永禄11年(1568)2月、楠正邦らが奮戦するも、織田軍に楠山城は降伏することになりました。
元亀2年(1571)、信長の命で強制的に隠居させられ、正孝の弟、楠土佐守に預けられましたが、天正10年(1582)、信長が四国征伐の計画を立てていた頃に赦されて旧居に帰り、正忠と名前を変えたとされています。
- 晩年
- 正忠は北伊勢の軍勢を率いる滝川一益の部隊に属して甲斐攻めに従軍したと思われますが、本能寺の変後は、織田信孝に従い、羽柴秀吉と信孝の岐阜城での戦いの時に討死してしまいました。