トップページ(南木-楠木正成サイト-) >>  楠正具(正倶)(くすのきまさとも)

楠正具(正倶)(1516〜1576?)

逆さ菊水紋紹介
 戦国時代の人物。楠正忠の子。七郎左衛門。正覚。伊勢楠山城七代目城主。
楠山城址  16歳の時、神戸具盛が烏帽子親となって正具と名乗りました。弘治2年(1556)には、伊勢国(三重県)北畠具教に仕えました。
 永禄10年(1567)8月、織田信長は伊勢国に侵攻してきました。織田軍は北伊勢の諸豪族を次々と平らげましたが、楠山城6代目城主の楠正忠(当時は貞孝)と治田城に入った正具は抵抗しました。
逆さ菊水紋信長に抵抗
 正具はわずか500程の兵力で織田の軍勢を何度も撃退しました。さすが楠木正成の子孫だという評判で、正成に負けず劣らずの知略を用い織田軍を苦しめましたが、それは次第に信長の恨みを深くかってしまいます。
 織田軍が北畠方の武将、山路弾正の篭る高岡城を優勢に攻撃中、山路弾正から高岡城だけでなく北畠方の神戸城や関城も共に降参するように自分が説き伏せるという条件を付けての降参を申し入れてきました。織田家の諸将が攻撃をやめ評議に入りましたが、この時間稼ぎの条件降伏作戦は正具の入れ知恵で、その間に、織田家の本国の美濃国(岐阜県)での不穏な動きや甲斐国(山梨県)の武田家の美濃侵攻の噂を流し、その噂を信じた織田軍の諸将は、主力部隊を美濃へ引き上げていきました。
治田城跡
逆さ菊水紋詭計と夜襲
 翌永禄11年(1568)、織田軍の再来襲の時には、関氏や神戸氏も信長と講和しましたが、治田城の正具は降伏の勧めにも応ぜず抵抗しました。北畠家の本城である大河内城を包囲しだした織田軍に対して、正具は策略を用いました。その時、治田城も包囲されていましたが、正具は足立新五郎という忍びを使い、長島の一向宗の拠点、願証寺の服部左京亮に文を渡しました。元より、正具と服部左京亮とは親交があり、さらに正具が本願寺の顕如上人とも親交があったこともあり、左京亮は文に書いてあった援軍を出すことに快諾しました。左京亮は長島門徒一万人を引き連れ、南無不可思議光如来の旗を掲げ、「織田軍の援軍」として、治田城を包囲する織田軍と大河内城を包囲する織田軍の二手に別け、うまく織田勢の援軍部隊として潜り込みました。治田城から南無不可思議光如来の旗をみた正具は、『我が策略成功せり』、と思ったことでしょう(その旗を揚げることが織田軍への潜り込み成功の合図だった為)、さっそく、その対陣中の長島門徒に使いを走らせて、『今夜、夜襲するので手助けして欲しい』と連絡を取りました。その夜に治田城から正具が討って出て、織田軍に潜り込んでいた長島門徒は正具軍を導き、織田軍を混乱させました。さらに大河内城の織田包囲軍にも夜襲をしかけて混乱させ、その結果甚大な損害を受けた織田軍は桂瀬山の本陣にまで退却しました。
 しかし、やがて信長は北畠氏と講和を結び、織田茶筌丸(のちの織田信雄)を北畠具房の養子にました。講和を喜んだ信長は、治田城を攻撃し正具を血祭りにあげようとしましたが、秀吉に諌められた話が『石山軍記』に出ています。

以下、引用を開始します。

秀吉諌めて申すやう、「楠如き者降参さすれば宜き郎等にて候べしと使者を以って禮(礼)を厚くし招きけれ共、正具承引せず(正具曰く)『不智齋(北畠具教)父子臆病にて信長に降る共、我は信義を失ふまじ。城を守りて討死する事勇士の習ひなり。然れども具教父子降参の上は我討死すとも犬死同然にて、殊に彼の父子の為にも悪しかるべし。然(さ)れば迚(とて)、今更膝を折りて降参せん事、義士のせざる所なり。是れ迄具教父子をしばしば諌むると雖(いえど)も用いずして、今此滅亡に及べり。三度諌めて身退くは臣下の習ひ、我北畠の旗下と成りしは信義にして主従に異る事なし。速かに當(当)城を開き武士道を止めて山林に身を躱(かく)さば義に於て恥る事有るべからず。』と蓄貯(たくわえ)の財寶(宝)重器を家人共へ分与へ、『何方(いずかた)へ成りとも奉公致すべし』と悉皆(ことごと)く暇を遣し、城中を奇麗に掃除し兵粮武具等を寶庫に納め員数を記し戸前を封じ、城受取人の役人へ亂(乱)暴なき様下知せられたしとの一通の書を認め、書院の床の間に遺し置き、妻子を引連れ城を出で山林に躱れんと思ひしが、(正具曰く)『否々今度敵を計らんが為、本願寺の贋書(にせぶみ)を以て大軍を追散せし事、兵は詭道とは云へ、假(仮)にも上人の御名を以て偽りし事、其罪至って重ければ此由本願寺に赴き明白に申し直に出家入道して一向専修の門に入らん事、現世未来の本望なり』と急ぎ大阪指して上がりけるは、忠と云ひ義と云ひ實(実)に楠正成が後胤なりと感ぜぬ者こそ無かりけれ。」

引用を終了します。一部、管理人により字体を変更したり記号やカナをふったりしています。

参考文献:『楠正具精説』の「石山軍記」第六編の項
 
 しかし、信長は治田城を攻め始めます。治田城の城門際まで押し寄せましたが、治田城はしーんと静まりかえり、反撃の弓矢もありません。さては、正具の計略かと考えた織田勢は2時間ばかり攻撃を止め様子を見ておりました。しかし、あまりにも静かなので警戒しながら城中に入ってみると、正具も兵士達もおらず、綺麗に掃除された城中の書院の床の間に一通の書があるだけでした。またしても正具にいっぱい喰わされた怒り心頭の信長に、秀吉はまたまた諌めております。

以下、引用を開始します。

(秀吉曰く)『流石は正具、正成の後胤程ありて能(よ)く信義を守りて城を開き世を遁れんと致したり。有難き勇士なるかな。敵ながらも斯(かか)る武士は御褒詞有てこそ武将の仁徳とは申すなれ。抑々(そもそも)君に仕ふる者、彼の正具が志操(こころざし)を以て忠義を盡(つく)さば、君如何ばかり満足に思召れん。臣の身としては君を諌め聞入れられざる時に至りて猥(みだり)に其家を出るは誠忠に非ず。今正具が進退を見るに渠(かれ)既に具教父子を諌めし事明白なり。然(しか)るに具教用ひず、玄(げん)に名家の衰頽せしは是れ不智齋と號したる名詮自稱(称)と云ふべけれ。斯て旗下の輩、或は退去し、又は降参主人を顧みる者なきに、獨(ひとり)正具義を守りて籠城し、然も小勢にて敵を破り大河内の圍みを解きて急を救ふ、其戰功大いなり。又、大河内降参したる上は楠當手の招に應(応)ずべきを義に守り降参せず、城を開いて士卒を助け武士道を止め身を躱すとは咸ずるに猶餘りあり。剩(あまつさ)へ、兵粮財寶の員數を記し封をなしぬる事、誠に當代には稀なる武士と云ふべく、實に忠臣は國の危き時に顯(あらは)るゝと云ふ如く北畠滅亡せんとする今此時、渠が忠義の志操、思ひ合され候』と咸涙を流し諌めけるに、爾(さしも)の信長是を聞かれ心解けてや怒りを押へ再び是れを言出られず勢州(伊勢国)を平定しければ・・・(以下略)。

引用を終了します。一部、管理人により字体を変更したり記号やカナをふったりしています。

参考文献:『楠正具精説』の「石山軍記」第六編の項
 
 上記のように、孤立無援の正具は「主家との義」も果たし終えたこともあり、治田城を清掃した上で脱出し山林に隠れ住もうとしましたが、先の計略で顕如上人の名を勝手に用いたことを直接詫びたいこともあって、妻子を連れて摂津国(大阪府)の大坂本願寺に向かいました。正具は一向宗門徒だったのでしょうが僧籍になることを望む正具を顕如は許し、三番というところにある浄泉坊(移転していますが、現大阪市東淀川区の定専坊。旧名西光寺)に入れ、正具は正覚と賜号されました。
浄専坊
逆さ菊水紋大坂本願寺に属す
 信長は、本願寺に正具の引渡しを迫りましたが、顕如はこれを無視しました。正具は対織田家との戦いの時には、本願寺方として戦いましたが、天正4年(1576)5月7日(7月とも?)、木津川の戦いの時に、織田軍の流れ玉にあたって戦死しました。享年61歳といいます。
 また、この戦いでは戦死せず、本願寺が大坂を撤退する頃までは生き延びていたという話も残っております。
参考:絵本太閤記、真書太閤記