生い立ち
- 戦国時代の武将。
はじめは大饗長左衛門、甚四郎、二郎左衛門。後に楠木氏の末裔(楠正盛の子孫)と自称します。正虎の意志というよりは彼の周りから名乗るように云われた気がします。
河内守。式部卿法印。
備前国(岡山県)出身とも河内国(大阪府)大饗出身とも言われています。その大饗は鎌倉時代末期〜南北朝時代に楠木氏とともに戦った和田氏の本貫地ともされています。
室町幕府13代将軍足利義輝に仕え、1559年には正親町天皇への、おそらく献金等を含む働きかけの結果(正親町天皇は即位後3年間は即位の礼を挙げれないほど財政難だった為、献上金を行った大名等には位階を授けたりしている。また正虎個人の働きかけではなく、他の力添えがあったはず)、先祖の楠木氏の朝敵赦免を得て、従四位上河内守に任命されました。それまでの楠木氏は足利幕府から睨まれる存在で一族の追求も厳しく、楠木氏の一族は名前を変えて世の中を忍んでいたとされます。正虎は先祖の非を詫びる事によって朝敵の汚名を晴らしました。おそらく、その後に楠木氏を名乗ったと思われます。義輝に仕えた後、いつの頃からか三好長慶の家臣松永久秀に仕えます。信貴山城を拠点とした久秀の河内・大和平定政策(楠木氏の縁者を配下に置くことによって河内の土豪や寺社勢力等を懐柔した)もあって重用されたのかもしれません。
信長と秀吉にも仕える
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久秀に仕えた後、織田信長・豊臣秀吉の右筆を務めますが、以前からそれ相応の知識と教養の評判があったことが想像されます。正虎は飯尾(いいのお)流の名筆家としても知られています。書を飯尾(三善)常房に学び、世尊寺流の当代一流の書家であったとされますが、飯尾常房は1485年に亡くなっておりますので、この説はおかしいです。ですので、飯尾流を学んだ然るべき人物に書を学んだと思われます。
飯尾氏は三善氏の流れで、この三善氏は鎌倉幕府の問注所の初代執事になったりしていますが、建武の親政の頃、楠木正成は紀伊国(和歌山県)の反乱を鎮めに三善信連を遣わしています。このころからの縁でしょうか?
妻が冷泉為益の娘、子の正辰の妻を山科家から迎えましたので、公家クラスとの深い交流があったことが想像されます。晩年は僧侶になり、長晏改め長諳と号し、東寺にも住しました。
信長には1574年頃から右筆として仕え、この後の信長の発給文書は、この正虎によって書かれた文書が多いそうです。本能寺の変の時は京にいたとされますが、本能寺に宿泊していなかったのか、命は助かっています。変後に、秀吉の右筆として仕えます。晩年に秀吉の勘気をこうむったとも言われています。
足利義輝を倒した松永久秀に仕えたり、本能寺の変では織田信長と共に亡くならず秀吉に仕え、激動の舞台を潜り抜けてきた人物です。
楠木正虎(1520〜1596)
次の画像は、京都府京都市南区九条町1の教王護国寺(東寺)の食堂。