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楠木正澄(?〜?)

逆さ菊水紋紹介文
 南北朝時代の人物。河内国(大阪府)の倉満庄津田村(枚方市)の地頭。楠木三郎数馬と称しました。
 大阪府門真市教育委員会の説明板を抜粋しますと、室町幕府の追っ手が厳しくなったため、三ツ島(門真市)に隠れ住むようになりましたが、正澄の三女が後小松院(1377〜1433)の官女になり、とんちで有名な一休さんを産んだという「橘姓楠家倉氏系図」に記載されているのを紹介しています。その正澄の三女のお墓が今も門真市に祀られています。
 *一休の母は、この正澄の姉とも伝わります。
一休禅師の母の墓
逆さ菊水紋いつごろ?
 この正澄は、楠木正儀の孫、つまり津田正信の子という説がありますが、正信は正儀の実子ではなく、猶子(血縁関係が無い親子関係)という形だったという伝承もあります。したがって、正澄は正儀の孫であっても血縁関係は無いということです。正儀が1350年代に京攻めを数度行った時に、京に近い北河内の津田正信が正儀の猶子になり、一時、北朝に所属した時の正儀の口添え等で正信の娘が後小松院の官女になりえたのかなとも思いましたが、一休宗純が生まれたのは応永元年(1394年)ですので、正儀が弘和2年(1382)に南朝に戻ってから12〜3年経ちます。後小松院(1394年では天皇の位)は18歳ころだったと思われます。
 いつごろ官女になりえたかはわかりませんし、どのような手順で宮仕えできるようになったかは不明ですが、南北朝が争っていた時に南朝の縁者が北朝の天皇の側近くに仕えることは考えにくいので、宮仕えが出来たのは南北朝の合一(1392年)後の話でしょうか。それとも、後小松天皇は北朝よりも南朝を重視していたのでしょうか?