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楠木正忠【空信】(?〜?)

逆さ菊水紋紹介
 南北朝時代の人物。父は楠木正季。右近衛将監。
 奈良市上三條町にある浄土真宗本願寺派の九條山淨教寺の説明書によりますと、『第六世圓誓のとき、楠木正季の子楠右近衛将監正忠初陣に深手を負い、圓誓の養子となり出家して空信といい、南朝、光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所となり「称佛名院」の号を賜った。爾来、淨教寺紋は「菊水」となる。・・・』とあります。
 正季は1336年5月に湊川の戦にて戦死しておりますので、正忠は、その頃までかその10ヶ月後以内に産まれていたと思われます。
九條山淨教寺
逆さ菊水紋和田正忠??
 1352年、南朝方は京都を攻めます。閏二月、楠木正成の子で正季の甥の楠木正儀は摂津国の神崎で赤松光範との戦いに敗れ、河内国へ撤退する時に、京からの足利勢が退路を断とうと仕掛けてきました。足利方の土岐勢に、土岐悪五郎頼里という豪の者がいて、16歳の和田正忠と戦いました。激闘の末、正忠は頼里に打ち勝ちました。しかし、後村上天皇の南朝方は北河内の男山に陣を構えましたが、じりじりと足利方に包囲され、脱落者が日に日に増えてきました。そんな中、正儀と正忠はこの包囲を破る為の兵を集めるために、密かに男山を脱出しましたが、本拠の東条へたどり着くと正忠は病死しました。
 正季の子と伝わる和田賢秀等、正季の子供たちは「和田氏」を名乗っていることが多く、この土岐頼里を打ち負かした正忠も「和田」であります。また、16歳で病死とありますので、1337年生まれになります。ということは正季の子の可能性もなきにしもあらず・・・。病死という点と出家という点が違いますが、日常からいなくなる、ある意味、遁世したと考えれば、世間的には病死したと発表し、実際は出家していたのではと想像してしまいます。