なぎのむら(南木村) その2


 話は元に戻りますが、私の名字は「楠」です。「くす」と発音します。この南木の本には「楠(くす)」という家が数件あります。しかし、「楠」と書いて「くすのき」と発音する家もあります。2003年までは、私のところと、他の「楠」とどんな関係があるのかはわかりませんでした。

 2004年になって、私の父を中心に市役所や菩提寺で調べ、親戚や楠を名乗る人に聞いてまわりました。徐々にわかってきたり、途中で行き止まったりしながら一つの形となってきました。私達父子の本家の本家の本家が「楠(くすのき)」でした。200年近く前の「楠善七(くすのきぜんしち)」の家から、5人の男子が成人していまして、そのうちの長男が今の「楠(くすのき)」の筋で、後の4人は現在「楠(くす)」と名乗る家の筋でした。つまり、分家筋は「楠(くす)」と名乗っておりますが、どの筋も家紋は同じ「丸に柏の違い重ね」でした。まさか、楠木正成一族の家系も長男筋は「くすのき」で分家筋は「くす」ということ、例えると、楠正成は(くすのき)で、弟の楠正季は(くす)だったとかは無いと思いますが、楠善七の長男筋は「楠(くすのき)」でした。柏の家紋は、神さん関係や漁・船の関係の家系が多いのですが、私たちは、この村の神社、「樟本神社」に従事していたのでしょうか。尚、余談ですが、この村では「くすのき」のイントネーションに特色がありまして、「き」の字を強く発声します。

 海音寺潮五郎氏の著書「武将列伝(二)」の楠木正成の項に、『「楠」という字を「クスノキ」と訓ずるのは誤訓である』とあります。『クスの本字は樟である』そうです。また、『梅の部属の植物』で、香木(総称=奇南、希楠)『であるところからクスシキ木(霊妙な木)という意味でクスノキと呼ぶようになり、それがやがて樟のクスノキに誤用されるようになったのではないかと思う』とあります。

 氏の説を少し略して書き記しておりますが、だとすれば、延喜式内社にも載っている樟本神社、「樟本」が正式ですが、後に「楠本」の字も用いたのではないかと私は想像してしまいます。また、希南を木南と誤って「楠」の字が出来たというのも、考えてしまいますし、「奇」という字にも奇し(きし・くし)という読みがあります。

樟本神社  先にも述べましたが、樟本神社は近辺に合計三社あります。八尾市木の本、北木の本、そして南木の本。3つあることから、三木本神社とも呼ばれております。3つとも物部氏が崇拝していた神様を祀っており(一説には物部守屋を祀っているのを憚っている)、物部氏との深い関係が想像されます。北木の本の樟本神社の境内には、物部守屋の首洗い池が残っていますし、少し北には、物部守屋のお墓もあります(守屋のお墓と南木の本の樟本神社の中間に北木の本の樟本神社があります)。物部守屋のお墓のすぐ西には、聖徳太子ゆかりの大聖勝軍寺もありますが、その中にも、物部守屋の首洗い池があります(こちらの方が有名です)。南木の本7丁目の光蓮寺は、物部氏の城である「稲城」があった跡地に建てられたとされています。今の東大阪市の衣摺や八尾市の跡部にも物部氏の城である稲城がありました。この辺りは「渋川」という地名で旧大和川沿いの南側の地域です。物部氏も交通の要衝を押さえていたそうです。大和川の上流には、石上神宮があります。物部氏の拠点ですね。石上神宮から真西が、この樟本神社三社ある土地です。

 そして、いくつかある楠木氏の家系図のひとつには、この物部氏とのつながりを示す家系図があります。