なぎのむら(南木村) その3
その後の父の調査で、私の曽祖父が南木の本の樟本神社のお世話をさせていただいていたことがわかりました。どこまでの手伝いだったのかはわかりませんが、ひょっとしたら曽祖父だけでなく先祖代々??と思ってしまいました。我が一族の柏の家紋のルーツがここにあるのかもしれません。同じ村内の数件の他家(楠家以外)も、我が家と同じ丸に柏の違い重ねの家紋を用いています。樟本神社の信者の証しが、この家紋なのかもしれません。
さらに、本家の「楠(くすのき)」の家の庭には、大きなクスノキがあります。樹齢何十年か何百年??かはわかりませんが、けっこう大きなクスノキです。ご近所さんからは、「あそこの家にはクスノキがあるから楠(くすのき)って名字なんや」と言われていたようです。楠木正成の伝説にも似たような話があります。また、楠木正行の四条縄手の戦い(東大阪市)の時に、主力軍以外に高内定行率いる別働隊がありましたが、この「本家の楠(くすのき)」の隣の家に高内さんという方が以前から住んでおりました。父の幼少時代に男性のお年寄りがいたそうですから、昔から南木の本村の住人だった可能性が強いです。単なる偶然でしょうか?お導きでしょうか?
そして、今は道路になっていて「いけのかわ」と地元で呼ばれているところを南北に流れる川、つまり大乗川ですが、この川は南河内方面から流れ、古室(小室)、沢田、大井、太田、木ノ本、六反の村々を流れ平野川に合流していたそうです。1700年代の大和川付替え工事後、この新大和川が大乗川を分断しましたから、川としての機能はかなり薄らいだのではと思いますが(昭和20年頃、ほとんど流れの無い川だった)、南北朝の頃に楠木一族が大いにこの川を利用していたのではと想像されます。この大乗川のすぐ側にある木の本村の浄土真宗の正成山西光寺(南木の本村のすぐ側でもあるのですが)、ますますこの「正成山(しょうせいざん)」という名称に興味を覚えます。たしか、ちょっと前までここの住職は楠系の名前(楠本さん?)だったと聞いております。戦国時代に本願寺の側で戦って手柄を立てた人に、本願寺の『本』の字を与えたそうですので、もともと楠という名前で、なんらかの手柄を立てたので楠本になったかもしれません。