- 熊野楠氏
- 紀伊国(和歌山県・三重県の一部)の熊野周辺の熊野楠氏。
熊野木+豫(木へんに豫)樟日命の6世孫である熊野木+豫樟富命の末裔に富彦という人物がいました。富彦は嵯峨天皇(在位809年-823年)の時代の弘仁年間(810-824)に起こった熊野での盗賊蜂起を天皇の勅を得て平定しました。貞観18年(876年)の時に、清和天皇(在位858-876)が熊野に行幸され、都へ帰られる時に供奉し、そのまま都へ留まって熊野へは帰りませんでした。その富彦の6世孫が正定で、正定は熊野へ帰りました。
正定は、熊野にある伝秦徐福の旧地(和歌山県新宮市)の楠藪と呼ばれている所に住みました。その名の通り、クスノキが生い茂った所だったのでしょう、周辺の人々からは楠殿と呼ばれました。
正定には茂房という男子と、もう一人、娘がいました。この娘は京に嫁ぎましたが、その夫が橘好古(893-972?)6世孫の掃部助橘盛仲で、正遠を産みました。正遠の時代、橘氏の勢力が振るわなかったので、正遠は母方の楠を名乗りました。当時、母方の楠氏は熊野三山の神官でもあり威厳もありました。この正遠は、俊親、正成、正氏、恵秀、娘(和田正家に嫁す)の子供を儲けました。
【参考系図】・・・管理人改訂版
富彦・・略・・楠正定┬茂房─正勝─定久─景久─兼政─房治・・為包─杉本治之┬圓秀律師━正栄坊
└女 ├圓福僧都 ↑
│ ┌─俊親 └正之┬宝光 │
├─┤ (正康次男)├僧都正栄坊
│ │ └康治┬実治
橘好古・・略・・盛仲─正遠├─正成┬正行 └康近┬正真
│ ├正時 └正盛
│ └正儀┬─正勝─正理─行康─正俊─成良─正隆─良治┬良清┬正次
├─正氏 └─正秀─正盛┬盛信 ├良廣├良廣
│ ├──女 ↑ ├盛治 └正利└丈庵
│┌女 ├良宗┬○│ └盛宗─盛秀─長成┬賢信─正康┬○
││ │ │ │ └木澤正治 └正之(養子へ)
和田良守─│┴和田宗実 └正秀(正儀の猶子へ) (尾張織田家出仕へ)
├─恵秀
└─女
│
和田正家
橘好古の時代から6世孫の橘盛仲、それに正遠-正成と続いていますが、血縁関係で考えると年代的には無理があるように思われます。ただし、この橘氏の系統には当主がいないという空白期間(橘氏の勢い振るわず、跡継ぎが途絶えた、養子をもらうのに期間があいた等の事情か)があった、もしくは、橘氏を継いだ男子だけを書き記しているとするならば、代々の開きがあってもよいのかもしれません。あくまで個人的な想像ですが。
- 河内楠氏と熊野楠氏
- 正氏の娘が和田良守の子宗実に嫁ぎ、良宗を産みます。その良宗の次男正秀が、正成三男の左馬頭正儀の猶子になります。正氏の曾孫に当たりますので、正儀の晩年に迎え入れられたのでしょう。これによって、正秀は姓を橘に改めたそうです。この正秀の末裔に正治がいます。正治は故あって紀伊国の木津呂という所に蟄居しました。この木津呂は、上古、木澤という名称でしたので、正治は木澤與左衛門と名乗り、尾張国(愛知県)の織田氏に仕えました。後世、楠や和田の一族に木澤と称する人が多いのは、この影響によるそうです。
その後、末裔たちは、熊野本宮や新宮の神官や社僧になったり、各地へ散らばったりした模様です。
参考:東牟禮郡誌