南北朝略年表
(元弘の変)

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元徳三年・元弘元年(1331)
 5月、元弘の変。
4月29日、鎌倉幕府を倒す計画が前権大納言さきのごんだいなごん吉田定房によって漏れ、5月11日、その首謀者たちの日野俊基・円観・文観もんかん・忠円らが捕らえられた事件で、今回は後醍醐天皇も危うくなり、8月になると京を脱出する。
円観は奥州(東北地方)へ、文観は硫黄いおう島へ、忠円は越後(新潟県)へ流された。
 8月、後醍醐天皇、大和国(奈良県)笠置かさぎ山に立て籠もる。
京を脱出し、はじめ東大寺に逃れようとしたが拒否され、次に山城国和束の金胎寺に移った。
そしてより要害な笠置山に籠り倒幕の旗をあげた。
護良親王も比叡山から笠置に移る。
後醍醐天皇が京を脱出した夜、花山院師賢は天皇と偽り比叡山へ移るも露見。
師賢と尊澄法親王も笠置へ。
 9月、楠木正成まさしげ、河内国(大阪府)赤坂城に挙兵。笠置城落城。
 桜山茲俊、備後国(岡山県)で挙兵。
おそらく、文観らと事前の打ち合わせの通りに正成は挙兵したと思われる。他に河内からは、石川義純父子、錦織俊政も参加した。
9月2日、六波羅探題が糟谷宗秋・隅田通治を大将に攻め、大仏おさらぎ貞直・金沢貞冬・足利高氏あしかがたかうじらの幕府援軍により笠置山包囲、28日には笠置城落城。落城後、後醍醐天皇は万里小路藤房・万里小路季房・千種忠顕ちぐさただあきらと赤坂城をめざすも途中で深栖みす三郎と松井蔵人に捕らえられる。
赤坂に先着していた護良親王は吉野へ入る。

【楠木氏略系図】
?┬正成┬正行
 │  ├正時
 │  └正儀
 └正季
 10月、鎌倉幕府軍、赤坂城攻撃、落城させる。
正成の知略で幕府の大軍を大いに悩ませた戦い。
正成は数日間ほど戦い、自害を装って脱出した。
後醍醐天皇を捕らえた幕府は持明院統の光厳こうごん天皇(量仁親王)を立てる(北朝のはじまり)。
正慶元年・元弘二年(1332)
 3月、後醍醐天皇を隠岐島へ配流。
他に後醍醐天皇の皇子、宗良むねよし親王は讃岐さぬき国(香川県)へ、尊良たかよし親王は土佐国(高知県)へ配流。
後醍醐天皇は、千葉貞胤、小山秀朝、佐々木道誉に警護されて隠岐へ。
藤原行房、千種忠顕、阿野廉子(三位局)が付き従った。
 6月、日野俊基死去。
元弘の変の処置として、俊基が葛原ヶ丘で斬られた。
同じ頃、佐渡で資朝も斬られた。
 11月、護良親王・正成挙兵す。
どこかで潜伏いていた護良親王が大和国(奈良県)吉野に挙兵し、 同じく潜伏していた正成が河内千早ちはや城で再び挙兵する。
後醍醐天皇が隠岐島にいた頃、護良親王が倒幕の中心人物となっていたのか。
 12月、正成、赤坂城を攻略、奪い返す。
正慶二年・元弘三年(1333)
 1月、赤松円心則村のりむら、挙兵。
則村は播磨国(兵庫県)苔縄こけなわ城で挙兵し摩耶山まで進出す。
息子の則祐のりすけが護良親王からの綸旨りんじを持ってきた。
 2月、上赤坂城落城。
用水路を断たれ、上赤坂城の城主平野将監しょうげんは捕まり京都の六条河原で斬首。
閏2月1日、吉野も落ちる。村上義光は護良親王の身代わりとなって割腹。息子の義隆も戦死。
護良親王は吉野を脱出、高野山へ。
河内道、大和道、紀伊道の三手にわかれていた幕府軍を楠木軍が千早城で迎え撃つことになった。
楠木軍はよく持ちこたえ「金剛山ハイマダ不被破(やぶられず)」という状態は各地の挙兵軍の勇気となった。
 うるう2月、後醍醐、隠岐島脱出。
後醍醐天皇は伯耆ほうき国(鳥取県)船上山せんじょうせんに拠り、名和長年なわながとしを頼った。
船上山より倒幕の綸旨を全国に飛ばした。
出雲国の塩冶高貞などが、伊予国では土居通益・得能通綱・忽那重清、肥後国では菊池武時が旗揚げをした。
千種忠顕が京へ進軍す。
 4月、足利高氏寝返る。
幕府は、後醍醐天皇を討つために伯耆(鳥取県)へ足利高氏と名越高家を発進させていたが、高氏は三河(愛知県)の矢作やはぎ宿で後醍醐天皇に内応し綸旨をもらおうと細川和氏と上杉重能しげよしを船上山に遣わしていた。
名越高家は途中赤松軍に討ち取られる。
4月29日、足利高氏は自分の領地丹波国(京都府)篠村八幡で寝返った。
 5月、六波羅陥落。
足利高氏・赤松則村・千種忠顕らが六波羅を攻略する。
六波羅の南方北条時益は近江国で野伏に殺され、北方探題北条仲時は鎌倉を目指して逃げるが、5月9日、伊吹山ふもとの番場(滋賀県)にある蓮華寺で自害した。光厳天皇も負傷する。
千早城の包囲も解けた。千早城は落ちず。
 5月、新田義貞、鎌倉攻略す(鎌倉幕府滅亡)。
新田義貞は5月8日に上野こうずけ国(群馬県)新田郡生品明神で挙兵、18日には鎌倉を攻撃した。
22日に陥落させ、翌23日に菩提寺の東勝寺で北条高時ら一族が自害した。
鎌倉を陥落させた新田義貞はもっと支持されてよさそうに思われるが、この戦いに足利尊氏が嫡男千寿丸(義詮よしあきら)4歳を参加させていたため、東国の武士たちは義貞よりもこの足利の嫡男に集まったようだ。
義貞は尊氏をライバルと思っていただろうが当時無位無官の義貞に対する周りの見方がこれでわかる。
5月25日、後醍醐天皇は光厳こうごん天皇を廃して年号を元弘に戻した。

【新田氏略系図】
基氏―朝氏┬義貞┬義顕
     │  ├義興
     │  └義宗
     └義助─義治
     (脇屋氏)
 建武親政成る。
天皇自ら直接政治をする。
 6月、後醍醐天皇、帰京す。
5月23日に船上山を発ち、播磨国書写山、兵庫の法華山、福厳寺と立ち寄り、6月2日には兵庫を発した。
そのとき正成・赤松父子は迎謁した。6月5日に帰京。
6月13日には、大和信貴山に立て籠もっていた護良親王が帰京し、念願の征夷大将軍に任命された。
 8月、高氏、足利尊氏と改名。
後醍醐天皇の尊治たかはるという名(いみな)の一字「尊」をもらう。これはたいへん名誉なことである。
他に、鎮守府ちんじゅふ将軍、左兵衛督さひょうえのかみの官職を与えられる。武蔵守にも。
直義ただよしは数ヵ月後相模守に。
 この年、関白制の廃止、記録所・恩賞方・雑訴ざっぞ決断所・武者所設置。
 鎌倉将軍府、陸奥将軍府の設置。
その他、摂政・関白の廃止、諸国に国司・守護の併置、個別安堵法発布(すぐに諸国平均安堵法に変更)など綸旨による政治を行う。
しかし、謀綸旨にせりんじが横行しだす。
恩賞方の上卿(長官)も、洞院実世・万里小路藤房・九条光経と替わり公平さに欠いた。
雑訴決断所で決まった事象も「内奏の秘計」で覆され、こちらも公平さに欠いた。
そのため、新政府に対する期待も薄れていった。
北畠顕家は陸奥守、新田義貞は越後守と上野介に播磨介、
正成は河内守と和泉(摂津?)守に。
 10月、北畠顕家、陸奥国へ。
義良のりよし親王と父の親房ちかふさと赴く。足利直義は成良親王とともに鎌倉へ。
建武元年(1334)
 1月、大内裏造営計画発表。皇太子に恒良親王。
皇太子の母は阿野廉子。この月に年号を元弘から建武に。
 3月、乾坤通宝を新鋳すると発表。
 8月、二条河原落書。
此比このごろ都ニハヤ(流行)ル物 夜討、強盗、謀綸旨
召人めしうど、早馬、そら騒動・・・
 11月、護良親王を鎌倉へ幽閉。
後醍醐天皇は、9月に護良親王から征夷大将軍の職を取り上げ、 10月には結城ゆうき親光・名和長年に逮捕させ鎌倉へ送った。
護良親王と足利尊氏の対立が原因か、後醍醐天皇が罪を護良にかぶせたか。
「武家よりも君のうらめしくわたらせ給ふ」
建武二年(1335)
 7月、中先代の乱。
この反乱の首謀者である西園寺さいおんじ公宗きんむねが6月に捕まっている(日野資名・日野氏光も逮捕される)。
全国の北条残党による一斉蜂起は失敗した。弟の西園寺公重きんしげの密告による。
諏訪すわ頼重・三浦時継が北条時行を擁して信濃(長野県)に挙兵した。
北条時行は高家の次男で、鎌倉幕府滅亡の時には密かに信濃へ脱出していた。

【北条氏略系図】
時宗―貞時―高家┬邦時
        └時行
 7月、井出沢の戦い。
北条時行が鎌倉を攻略。
時行に敗れた足利直義は幽閉中の護良親王が時行の手に落ちることをよしとせず、淵辺ふちのべ義博に殺させた。
当時、鎌倉にいた成良なりよし親王と足利義詮をつれて三河(愛知県)まで落ちた。

【足利氏略系図】
家時―貞氏┬尊氏(1)┬義詮(2)―義満(3)
     │     └基氏(鎌倉公方)
     └直義…直冬(尊氏の子で養子)
 8月、足利尊氏、鎌倉入り。
足利尊氏は出陣許可がでないまま、および征夷大将軍に任命されないまま京都を出て北条時行を破り、そのまま鎌倉へ居座った。
 10月、足利尊氏、反旗を翻す。
尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を無視し、勝手に配下に恩賞を行った。
後醍醐天皇は尊氏の官位を奪い、尊氏追討を命じた。
朝敵になった尊氏は、君側の奸、義貞誅を上奏じょうそうし、あくまで私戦という形をとろうとした。
直義が諸国の武士に味方になるように要請している。
 12月、足利軍、新田軍追撃。
はじめ新田軍が優勢であったが箱根竹之下で足利軍が勝利すると、一気に京都へなだれ込んだ。
延元元年・建武三年(1336)
 1月、足利尊氏入京し。
1月11日、尊氏は入京した。
奥羽にいた鎮守府将軍(のちに鎮守府大将軍、権大納言、陸奥大介)北畠顕家あきいえが率いる奥州軍が鎌倉を無血占領した後京都に向かい、それと合流した後醍醐天皇陣営は正成らの活躍もあって尊氏を破った。
尊氏は丹波(京都府)に逃れた。

【北畠氏略系図】
師親―師重―親房┬顕家
        ├顕信─守親
        └顕能─顕泰
 2月、打出浜・西宮の戦い。
正成・新田義貞、摂津国(兵庫県)打出浜、翌日には豊島河原で足利尊氏を破る。
尊氏九州へ。
 2月、足利尊氏の九州落ち。
後醍醐天皇によって天皇の座を廃された持明院統の光厳上皇の院宣を手にすれば、尊氏側もにしき御旗みはたが備わり、大覚寺統対持明院統の戦いの構図ができあがると判断した尊氏は、2月12日、備後(岡山県)の鞆津とものつで院宣を受けた。これは赤松円心則村(大友貞宗?)の案とも言われる。
もう一つ、尊氏は元弘没収地返付令も出した。
尊氏方に付いていた則村は3月白旗城で新田軍と戦い、釘付けにしたため、尊氏軍は追撃されなかった。
 3月、多々良浜たたらばまの戦い。
足利尊氏・直義は筑前国(福岡県)多々良浜で菊池武敏・阿蘇惟直これなおを破った。
劣勢であった足利方は3月2日、突然の暴風で形勢が逆転したため、多々良浜の戦いで勝利できた。
翌3日には大宰府だざいふに進出した足利軍は後醍醐天皇側の残党を倒し、九州を平定した。
 4月、足利尊氏、東上す。
4月3日、一色範氏らを留めて、博多より東上した。
 5月、湊川の戦い。
楠木正成は、九州へ落ちた足利尊氏と手を結ぶ意見を述べるも採り上げられず、このたびも京都をいったん出て足利軍をじわりと包囲、兵糧攻めする作戦を述べるも不採用。
今度このたびは御戦必破かならずやぶるべし」という正成の思いは、さぞや複雑な心境からでたものであろう。
5月18日、足利尊氏は備中(岡山県)福山で新田義貞を破る。
25日、正成は摂津国(兵庫県)湊川で足利軍に破れ弟正季まさすえと刺し違える。
27日、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
 6月、千種忠顕戦死。足利尊氏入京。名和長年戦死。
近江西坂本で忠顕戦死。
長年は京にて死去。三木一草さんぼくいっそうと言われた人々が次々と戦死していく。
 9月、懐良かねよし親王九州へ。
後醍醐天皇の皇子の懐良親王は九州で南朝勢力の立て直しを図った。
しかし実際に九州に上陸できたのは1340年4月といわれる。
 10月、新田義貞、恒良つねよし尊良たかよし親王と共に越前(福井県)へ。
新田義貞、金ケ崎かねがさき城に入り北朝方と戦う。後醍醐天皇は京都に戻る。

主な出来事

1331年:元弘の変
1333年:鎌倉幕府滅亡
1333年:建武の親政
1335年:中先代の乱
1336年:湊川の戦い