南北朝略年表
(観応の擾乱)
- 正平二年・貞和三年(1347)
- 8月、
楠木正行 挙兵。 - 8月10日挙兵する。紀伊隅田(和歌山県)、河内・摂津で連勝。
- 正平三年・貞和四年(1348)
- 1月、四条縄手の戦い。
- 1月5日、楠木正行・正時が高師直に破れ戦死する。大塚惟正、和田賢秀も戦死。
高師直、吉野の行宮や蔵王堂などを焼く。
後村上天皇は賀名生 (奈良県)へ逃れる。 - 1月、懐良親王、隈府城へ。
- 懐良親王は肥後の菊池武光の隈府城に入ることが出来た。
- 正平五年・観応元年(1350)
- 1月、赤松円心死去。
-
観応の擾乱 。 - 足利直義と高一族が対立し、直義失脚。しかし直義は、12月に南朝に帰順し兵を挙げた。
足利直冬 も九州で直義に呼応。
【高氏略系図】
師重┬師泰
└師直…師冬(養子)
- 正平六年・観応二年(1351年)
- 南朝、足利直義と手を切る。
- 2月に尊氏と直義が和睦し高一族を滅ぼすも、8月、再び尊氏と直義が争う。直義、北陸を経て鎌倉へ。
尊氏、直義を討つために南朝に全面降伏す(正平の一統 )。
10月に直義追討の綸旨を受けた尊氏は、11月鎌倉へ向かった。
- 正平七年・文和元年(1352年)
- 2月、足利直義死去。
- 尊氏、直義を毒殺か。後村上天皇は山城国(京都府)男山八幡に移り京をうかがう。
- 2月、針摺原の戦い。
- 九州では、菊池武光が一色範氏を破る。
- 閏2月南朝、京都奪回。
楠木正儀 ・北畠顕能 らは義詮を追い払って京を攻め落とす。
光厳・光明・崇光の三上皇を捕らえて男山八幡に、ついで河内国東条へ移された。
東国でも新田義貞の遺児、義宗らも鎌倉を攻略。
しかし、3月には北朝に破れ、5月、男山にいた後村上天皇は賀名生へ移る。鎌倉も失う。- 8月、後光厳天皇即位。
- 足利義詮は光厳上皇の第三皇子弥仁親王(後光厳天皇)を即位させる。
- 正平八年・文和二年(1353)
- 6月、正儀ら再び京を占拠。
- しかし翌月には足利義詮によって京を追われる。
- 正平九年・文和三年(1354)
- 4月、北畠親房死去。
神皇正統記 を著した親房、死去。62歳。- 10月、後村上天皇は金剛寺へ。
- 後村上天皇は行宮を賀名生から金剛寺へと移した。
さらに翌年の12月、北朝の攻撃により金剛寺から観心寺に移った。
- 正平十二年・延文二年(1357)
- 10月、文観死去。
- 10月9日、没。
- 正平十三年・延文三年(1358)
- 4月、足利尊氏病死。
- 4月30日、没。義詮が二代将軍に。
- 正平十四年・延文四年(1359)
- 翌年まで、正儀は畠山国清と争う。
- 翌々年の正平十六年には、南朝軍は足利義詮を破り入京するが、すぐに撤退。
- 7月、筑後川の戦い。
- 7〜8月、九州では、菊池武光が小弐頼尚を破る。
- 正平十五年・延文五年(1360)
- 9月、後村上天皇、住吉神社へ。
- 後村上天皇は行宮を観心寺から摂津国住吉神社へと移した。それまで畠山国清に攻め続けられ赤坂城まで落とされていたが(同年3月)、京都に撤退したため後村上天皇は住吉に行幸できた。
- 正平十六年・康安元年(1361)
- 8月、大宰府占領。
- 菊池武光は大宰府を占領し懐良親王を迎える。
- 正平十七年・貞治元年(1362)
- 8月、神崎の戦い。
- 正儀・和田正武・佐々木高氏は北朝の箕浦定俊を破る。
- 正平二一年・貞治五年(1366)
- この頃から、南北両朝の合体工作がはじまる。
- 楠木正儀が精力的に活躍した模様。
- 正平二二年・貞治六年(1367)
- 12月、足利義詮死去。
- この年の4月には南北朝の和平交渉が南朝の正儀と北朝の佐々木道誉を中心に進められていたが、後村上天皇の綸旨に降参の文字があったため義詮が激怒した。
しかし義詮の死去は交渉をさらに難しくした。
主な出来事
1348年:四条繩手の戦い1350年:観応の擾乱
1351年:正平の一統