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楠木一族の概略

あくまで管理人の個人的な見解です(^_^;)
逆さ菊水紋古代
 古より日本では高い木の上に神が降り立ってくると考えられていました(巨樹信仰)。その木の一つに豫樟(=クスノキ。豫は、木ヘンに豫。管理人のPCでは漢字のアップ不可)がありました。クスノキはかなり大きく育つ樹ですので、特に縁起のいい樹と思われていたことでしょう。このクスノキは温暖な太平洋側の地域(西南日本)によく育ちました。そして今の和歌山県であります紀伊國(古くは木国)でもたくさん育ちました。神が宿る木はやがて霊木として崇められ、天照大神(アマテラスオオミカミ)の子(スサノオがアマテラスの勾玉から生んだ男神)にも、熊野久須毘命・熊野樟日命・熊野豫樟日命(クマノクスビノミコト)という名前が付いているように、クスノキには不思議なチカラがあるとされていたことでしょう。
 さらに、クスノキで作った天磐豫樟船(あまのいわくすぶね)という船には、伊弉諾(イザナキ)・伊邪那美(イザナミ)の産んだ蛭子の神を乗せています。『古事記』の仁徳天皇の段には、兎寸河の西に大きな樹があり、朝日が昇るとその木の陰が淡路島まで伸び、夕日の沈む頃には高安山まで影が伸びたと云われているくらい大きな木の話が載っています。その木で枯野(からぬ)という名の船を作り、それがまた速く水上を動いたとあります。その木はクスノキではないかと云われています。また、『播磨國風土記』にもクスノキから船を作り、それがとても速く進むことが出来た船だったので速鳥(はやとり)という名称で呼ばれたとあります。
 これとは別に、薬(くすり)という名称にも、何かクスノキと関連があるように思われます。「奇(く)すしき」という意味の込められたクスノキと体調を整える薬に、体調を診る医師(くすし)。この読みに共通する意味は、人が何か特別に思う気持ちが現れているように思われます。また、樟脳が現代にもあるように、臭し(くさし)という「におい」の面での意味もおおいに関連がありそうです。匂いがあるので、厄除け・魔除けの意味合いがありそうです。
 古代は水にも強いクスノキで船を作ったり、飛鳥時代にはクスノキで仏像を彫ったりと、身の回りの貴重な素材としても使われていました。このように、高木(こうぼく)のクスノキを信仰した山の民や船で生活の糧を得ていた海の民・川の民、それに医師や仏師というように、クスノキに関連していた民が存在していたと思われます。
逆さ菊水紋熊野楠氏と楠氏の名字
 紀伊国の熊野辺りに、熊野木+豫(木へんに豫)樟日命の6世孫である熊野木+豫樟富命の末裔に富彦という人物がいました。平安時代の弘仁年間(810年-824年)、富彦は熊野で起こった乱を天皇の命を得て平定し、その後、京へ上りました。その子孫達は熊野に戻らなかったのですが、富彦の6世孫の楠正定は熊野へ帰りました。正定は、楠藪と呼ばれている所に住みましたので周辺の人々からは楠殿と呼ばれました。
 ひょっとしたら、この頃から「楠」という名字を使用したのかもしれません。関東地方などの東国の多くの武士は住んでいる土地(名・みょう)、もしくは元々住んでいた土地(名・みょう)の呼び名を一族の名字(名前ですね)として姓(源や平、藤原、橘など)の変わりの通字として用いたそうですが、西国(西日本)では、土地の名称以外からも自分たちの名字として用いたそうですので、楠氏の発祥の地というべく「くすのき」という名称の地(名)が存在しないのかもしれません。古くから「楠」という名称の土地が無いそうなので、西南日本に多く群生する「クスノキ」という木が楠氏の名字の由来なのかもしれません。ちなみに、熊野本宮や新宮大社の南西方向には楠(くす)という地名(現・和歌山県の古座川町楠)が、三重県四日市市楠町にも楠という場所が室町時代にはあったそうです。
 熊野に戻ってきた正定の末裔たちは、熊野本宮や新宮の神官や社僧になっております。
逆さ菊水紋鎌倉時代の御家人説は・・・?
 中世の楠木一族は、いったい、どのような身分の集団だったのでしょうか??諸説あって定説なしとされております。その諸説には、鎌倉幕府御家人(参考:楠木四郎)、非御家人、商人的武士団、水陸交通の要衝に居住し運搬輸送に従事した集団、悪党、荘園の荘官、などがあります。能などの芸能を行う人々や賤民・散所の長、僧・山伏との結びつき、諜報活動などいろんな側面を持った一族だったようです。楠木正成がおおいに活躍できた背景には、彼の出現以前からのしっかりとした基盤(地盤)があったことが想像されます。
 鎌倉幕府の有力御家人は、その土地の名称とその武士達の苗字(名字)が同じ場合がほとんどであるようですが、楠木という地名は資料等では確認されていないようです。したがって、幕府の命令で楠木一族が各地の討伐に出向いた記録があっても、その事だけでは、鎌倉幕府の御家人だったとは断定できないそうです。その1322年の幕命で北条高時は、『河内の国の住人楠正成をして』という表現を用いていることから、正成は幕府の御家人とは違うという説もあります。しかし、もし楠木という地名があったらどうなんでしょうか。しかも河内に楠木という字をを分解したかもしれない、南木の本村・・・。

管理人拙考の楠木氏家系図拡大版
逆さ菊水紋河内国玉櫛庄
 運送業の発展は、水陸の分岐点などに拠点をうみ発展しました。京へ物資を運ぶルートはより安全な自勢力地域を通るルートや他勢力地域であっても何らかの形で通行させてもらうルートなど様々でした。街道も徐々に整備され、関所もいくつかあったでしょうが、重い大量の物資を運ぶことを考えますと、やはり陸より水運が便利だったでしょう。もっとも、鎌倉時代の中期以降は、日本にも宋銭(中国の通貨)が流れ込み、それが日本でも貨幣として活用されていましたが、やがて、遠隔地間での輸送(年貢等の輸送)では宋銭のかわりに割符屋(さいふや)を介して為替(かわし)と呼ばれた手形を使用しだしました。
 新大和川が江戸時代中期に完成するまでの河内平野の中部から北部は、今からは想像できないくらい大きな大和川(久宝寺川・玉串川・楠根川など)と大きな池(深野池など)がありました。奈良街道というのが当時以前からありましたが、この街道の北側では、たくさんの舟が浮かんでいたことでしょう。中河内から南河内に地盤を置いたとされる楠木一族は、きっと、この川を舟で移動したことでしょう。南河内から流れる石川や大乗川、東除川などを利用し大和川に合流、そして淀川に出て、京や摂津・瀬戸内海等に移動したことが想像されます。
 玉串川のおもに東側にあった中河内の玉櫛荘(東大阪市中南部・八尾市の北部)は、楠木氏の拠点の一つだったと考えられております。この玉櫛荘に橘正遠という人物がいて、その娘が伊賀の上嶋氏(服部氏)に嫁ぎ、彼女が能を大成した観阿弥の母親であるとされる系図があります。玉櫛の南側には今も上之島という地名もあります。正成が橘の姓を称したことと、正成の母が橘氏の出身であること、正成の父親が正遠であるとする系図が存在することとから、この正遠なる人物が正成の父親だとする説があります。もし、この橘正遠正成の父親なら正成はここで生まれ育ったのでしょうか? だとすると南河内にある楠公誕生地伝承との関係はどうなんでしょう。子供の正行達のことでしょうか。
 橘正遠という名前が建武政権下の武者所の結番第五番第八席に官位が書かれずにあるそうです。その上位の第二席には河内判官太夫正成とありますので、無位無官の正遠を正成の父とするのはどうかとする意見もあります。正成の父が存命なら、正成の功績に対して、父にも官位等の恩恵があってもおかしくないと思われますので、無位無官ということは、正成よりも立場が下であることが想像されますので、正成の甥の和田正遠(この和田氏は橘姓)であると推測されています。
逆さ菊水紋水と赤坂
 楠木一族は水の神を祀る、建水分神社を崇拝していました。同じく水系の美具久留御魂神社や恩智神社、元春日の枚岡神社も崇拝していたと思われます。楠木一党の一つとされる恩地氏の拠点にあるこの恩智神社にも水分社という別名がありまして、さらにこの恩智神社は江戸時代終わりまで奈良の春日大社の猿楽はこの神社が受け持っていました。ますます能と関係が深そうなことがわかります。
 鎌倉時代末期、楠木一族は水運に深く従事した集団だったと思われます。用水路も押さえていたのではと推測されます。また河内の金剛寺や観心寺、和泉の久米田寺との関係から、僧侶(当初は真言宗か、後は浄土真宗が多い気がします)・山伏や修験者らが使う山岳ルートも利用していたでしょう。僧・文観との結びつきや、大覚寺統との関わりもかなりありそうです。この河内国のすぐ近くにある二上山などから採れた辰砂(水銀がとれる)を楠木一族が売りさばき資金にしたとも言われております。ちなみに、砂鉄が採れた土地は土が赤かったそうですが、赤坂という地名はそれに由来していることが多いそうです。旧大和川から分かれる平野川、近くには奈良街道という交通の要衝に赤坂という村がありますが・・・。そしてそのそばには南木本村・・・。
河内古地図
逆さ菊水紋中河内
 楠木正成といえば、南河内地方が拠点だったというイメージが強いです。しかし、もともとこの地方に勢力を持った一族だったのでしょうか? 中河内から後に南河内に拠点が移ったのではと考えらている説があります。
1 正成の家臣・一族に中河内の土豪が複数いたこと(恩地氏・神宮寺氏・八尾氏など)。
2 正成の父(養父?)正玄が、中河内で八尾別当顕幸と戦った伝承があること。
3 正成の母(橘氏)が、中河内の東にある信貴山朝護孫子寺に子供を授かりますようにと祈りに参ったこと(毘沙門天を祀る住吉の極楽寺も似た伝承あり)。

 1の神宮寺氏は東高野街道沿いに拠点を持ち、現在の八尾市神宮寺あたりにも城(砦)があったとされています。八尾(矢尾)氏は現在の八尾市に勢力を持ち、八尾座もしくは近鉄八尾駅の南あたりに八尾城があったとされています。あと、恩地氏も正成と縁が深い氏族です。八尾市の恩智周辺の土豪でしょうか。
2は、正成の父には諸説ありますが、父正玄と八尾顕幸が勢力争いをし、やがて正成の戦略で勝利し、楠木氏に降伏したという伝承です。鎌倉末期には徐々に楠木氏の勢力が拡がっていったことが想像されます。
3は、祖父楠木正俊(和田正俊)の代の頃には(祖父も諸説あります)、南河内の金剛山近辺(東阪)に住み移っていたのではと思いますが(旧姓が和田氏?橘氏?)、館近辺にクスノキを正俊が植えて好んだことによって、名字を楠木にしたという逸話があります。個人的には、正成の母が橘氏の出身なのと、父が養子になって、橘氏を名乗ったのではとも思いますが、これらが正成正行が橘姓を名乗っていることにも通じるのではないでしょうか。正成の母が子供を授かりますようにと祈った信貴山朝護孫子寺は中河内玉櫛庄のすぐ側です。南河内にも所縁の寺院があるにもかかわらず、信貴山朝護孫子に祈願した理由は、やはり以前からの繋がりやその寺が母屋の近くにあったからではないでしょうか。当時、産まれた子供の多くは母親の元で育てられました。通い婚(男性が女性の宅へしのぶ)の時代なので、正成も幼少の頃は中河内に勢力があった橘氏の勢力圏で生まれ育ち、後に勉学等を学ぶ頃には南河内の楠木氏の勢力圏へ移ったのかもしれません。
逆さ菊水紋南北朝時代
 楠木正成正行父子は後醍醐天皇や南朝(吉野朝)方として活躍します。当時、利害関係によって、昨日は北朝方、今日は南朝方というようにと、その有利な勢力に鞍替えするのが当たり前な時代の中、楠木一族は南朝方に付いていました。しかし、正行の跡を継いだ正成の三男の楠木正儀の代には、南朝の勢力も弱くなり、何度か京を奪還しますが、その度、すぐに北朝方に追い出されました。やがて、和平の機運ももちあがり、打ち続く戦乱に終止符を打つための画策が具体的に練られ始めました。正儀は南北朝の統一を夢見ながら働いていましたが、南朝の後村上天皇が亡くなられ、強硬派(主戦派)の長慶天皇が位にたつと、正儀は南朝に居ずらくなったのか、ついに北朝へ移ってしまいます。正儀の子供達が、父の行動に従わなかったことをみると、正儀の心苦しい心中が察せられます。我々は後の時代から当時の時代を見ているので、このようにも思うのですが、当時の南朝勢力や楠木一族から見れば、裏切り行為と見られても仕方がなかったかもしれません。しかし、その正儀も再び南朝へ戻ってくるのですが、その最期は不明となっております。南北朝の合一をどこからか見ていたのかもしれません。しかし正儀は、どこにいても一族郎党や南朝のことを思い、そのもっとも良い状態を常に考えていたと思います。
 その後正儀の子、楠木正勝らが篭る千早城も足利勢に落とされてしまうわけですが、城内には、ごく少数の人数しかいなかったとされ、正勝らは雲隠れすることになりました。
逆さ菊水紋後南朝時代
 南北朝の合一での取り決め事が履行されないために後亀山上皇は再び吉野へ行かれたのですが、その後の楠木氏の足取りもほとんでわからなくりました。1399年の応永の乱に楠木正勝楠木正秀が幕府に反旗を翻した大内義弘の援軍として現れたりと、足利政権の反対勢力側として楠木氏の名(楠木正元楠木光正楠木兄弟楠木雅樂助等)が出てきます。この頃から、さらに朝敵(朝廷の敵)とされるのが強まった楠木氏は、河内・紀伊・大和・伊勢国や四国などで楠木の名前を変えて隠れ住んだものと思われます。
 嘉吉三年(1443)に禁闕の変(きんけつのへん)が、長禄元年〜2年(1457〜58)には長禄の変がおこりましたが、楠木を名乗る人物がおり南朝方の一員として働いていたことがわかります。その後、室町時代後期に現れた楠木正虎の働きで朝敵を免れ、伊勢楠氏の流れから出た楠正具は織田信長の軍勢を悩まし、後には大坂本願寺で働いた武将がおり、また江戸時代には楠木流の軍学(一例として、由井正雪の師とされる南木流の楠不伝)も流行りました。また河内の楠木正長が讃岐国(香川県)の高松藩に出仕しました。
 また、大阪府には名字が代々「楠」だったと思われるお寺が多く残っております。定専坊さん、法正寺さん、瑞松寺さん、定願寺さん、慈光寺さん、勝光寺さん・・・等等。また墨屋を開いた末裔や枚方宿の「くらわんか舟」に携わった末裔など、身分や職業を変えて生き延びた楠木一族の末裔だと名乗る家は今現在も少なくありません。

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